普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

けっこうリアルな2023年の目標

年も明けて数日。しかも2本くらい記事も書いているのだけど、今更ながら今年の抱負やら目標やらについて語ってみようと思った次第。

こういうのは公の場であえて宣言することによって自分の尻に火をつけるということが必要だと思っている。それくらいしないと僕はやらない。腰の重さはなかなかのもので、ヤンデレの愛情くらい重い。しかも宣言だけしてもやらない可能性すらあるというなかなかの軽薄さを持ち合わせているのでそこについての対策も練るべきだろう。

何はともあれ2023年の展望について考えていこう。

①人生初、飛行機への搭乗

数年前の年始の目標にも挙げたがその年にコロナが流行り始めたので結局達成できていない。いい加減空に旅立ちたい。目的地は正直どこでもよいけど、せっかくだし海外とか行っちゃいます?

②ダイエット

コロナとか関係なくここ数年で元の体重から1割増加した。せめてその分だけ痩せたい。これは単純に中年太りがついにきたのではという疑いが強い。BMIは正常範囲内なのに体型が正常範囲を逸脱している。特に胴回り。本気で痩せないと要ナイトブラになりかねない。おじさんの尊厳のために是非頑張りたいところ。

③お腹を割る

若干②とかぶるけど痩せることと筋肉がつくことは別物だと思うので別立てで。生まれてこの方腹筋を目視で確認できたことがない。割れた腹筋はスクールカースト上位の証。思春期の鬱屈した気持ちを昇華させるためにここはひとつ腹を割ってみようではないかということでエントリー。

④プログラミングを学ぶ

数年前からうっすら勉強したいという思いがありつつも手をつけられずにここまできてしまった。どの言語が良いかというのもわかっていない状態だけど、できれば何かひとつはプログラムを完成させたい。結構本気。

⑤仕事として記事を書く

フリーランサー的に記事を書く仕事をしてみたい。いわゆる副業として文章を書いてみたいという思いがある。そういった仕事を受けるサイトもあるようなので難易度を見極めつつチャレンジしよう。

⑦ブログ収益化

収益化っていうと大げさだけど、趣味と実益が兼ねられればそれに越したことはないし、やる気も倍増するというもの。でも金勘定というのが本気で苦手なので収益化に向けてのおもねった記事が書けるとは到底思えない。なんか変なこと書きはじめたら「あ、こいつやってんな」と思って生ぬるく見守ってください。すぐ恥ずかしくなってやめると思うんで。

⑧行きつけのスナックを作る

水商売系のお店に自分の意思で行ったことが一切ない。別にいく必要もないものだけど、そういう世界ものぞいてみたい。かと言ってキャバクラとかガールズバーというのも何か違うなと思うのでなんとなくしっとり落ち着いて飲めそうなスナックに的を絞ってみようと思う。ウイスキーの水割りとか飲んじゃうんだぜ。

⑨車を運転し遠出をする

免許を取得したのが2021年の暮れ。その直後に1度だけ運転をしたけどそれ以来結局1度も運転をしていない。駅の近くのレンタカー屋までいくのが超絶に面倒であり、そこまでいくならもう電車乗っちゃいますしということでぐいぐいとペーパーゴールド免許への道を歩んでしまった。子との移動を考えるとリアルに車移動は有用なので是非とも運転していきたい所存。

⑩とにかく生きる

とにかく死んじゃだめ。死んだらおわり。無事が一番。

 

こんなところですか。もっと思いつかないものかと思ったけど、意外にするっと出てきた。まだまだ心の中に熱いものはあるのかもしれない。こうして列挙することで自分でもやりたいことを整理できたのもよかった。

と、ここで「挙げただけでやらない問題」について考えなければ。要はペナルティを科すのが良いか。シンプルに嫌な目にあいたくない。

では、未達一件につき1週間禁酒にしようかな。これは僕にとって結構本気で嫌なやつだぞ。本当に大丈夫か。いま最初2週間禁酒って書いたのを1週間に訂正してしまった。こんな温度感でゆるくやってこうかと思います。

2023年はチャレンジ元年とします!(適当)

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

行き着く先は記憶のクラウドサービス

記憶力の低下が顕著だ。認めたくなくても認めざるを得ない程度には自分でも自覚できてしまっている。単純な加齢というのもあると思う。悲しい。

いや、他にも理由があるはずだ。そうに違いない。いやそうであってほしい。まあ話だけでも聞いていってくださいよ。

まず、脳内には保存できる領域、つまり脳内ストレージが存在し、そのストレージはひとによってその容量が異なっていると思うのだ。みんながみんな一律に大容量であるとは思えない。いくら情報を保存してもなかなかいっぱいにならないひと、逆にすぐにメモリーがフルになってしまうひと、それぞれ存在する。

スマホのストレージも容量がぱんぱんになってくると新しい情報を保存できなくなるばかりか動作も遅くなってくる。その状況が人間でも起こっているのではないかと考える。

そこを考えると僕も四十路。まあまあ脳内ストレージの使用期間も長期間になってきた。保存可能jな領域が少なくなってきたので新しい情報を書き込めなくなってきているのではないかと思うのだ。そう、記憶力の低下はストレージのヘタリ、かつ保存領域の不足によるものということである。

たぶん整理整頓などができるひとであれば記憶をうまく捨てたり消去しつつ保存領域を確保して新しい情報をまた蓄えていくのだろうけど、僕は信じられないくらいに掃除ができない。さらに断捨離が最もこの世で苦手といえるほどに物を捨てられないタチでもある。

そういう人間の脳内なので、脳内もいらんもんが捨てたり消したりされずに残りまくっているので新しい情報を保存できない=物覚えが悪くなっているということだ。最悪上書きでもできればまだマシなのだろうけど、そういった小器用なこともできない。もやもやする記憶は脳内の端っこの方に追いやってスペースが出来たような雰囲気を作り出してそこに新たな記憶を配置していく。この手法は部屋の片付けが本当にできない人間のやるやつである。

うまく記憶の整理をできるようになるというのはそれだけ割り切った気持ちの人間になるということなのかもしれない。不必要な記憶はさっさと手放してしまえたらそれがベストである。

と、まあそれは当然のことであるし、片付け上手さんの発想である。しかし片付け苦手眠はそういう要領の良いことができない。

ではどうするか。足りねえんなら拡張しちまえばいいんだよ!と物理に訴えるというわけである。リアル片付けで具体的に言うと物が捨てられないならレンタル倉庫などを契約することがそれにあたる。やっちまったんだよなあ…すまん、妻。

脳内でいうならメモを取るなりなどが物理的拡張にあたると思われる。それも有用ではあるが、ここはひとつ現代的にいきたい。いっちょクラウドである。それしかない。脳内記憶を外部記憶に頼るのだ。当然まだ実現していないので誰かやってほしいなというご提案となります。レッツ開発!

はい、ここまでが記憶力低下おじさんの言い訳タイムでした。記憶力は低下していくのに詭弁みたいなのばかり言いたくなるのも加齢なんでしょうな。

脳内を表現するのに適していそうなオブジェ

 

お寿司のあとはケンタッキーが食べたくなる勢

あけました!おめでたい!

あけましておめでとうございます。

まずは声高にご挨拶から。2023年の始まりである。もう2023って僕ら世代で言ったら未来の数字でしかない。なにせ僕が生まれたのって1970年代だ。立派に昔である。

そんな未来の数字に到達したといっても、お正月にすることは毎年そんなに変わりはない。お雑煮を作っておせちを食べてだらだらする。例年でだとここに母の録画したドラマ”相棒”をぼんやり眺めるという所作が入ってくるのだが、今年は帰省をしていないのでその様式美は崩れた。

その代わり、というわけではないのだけど、義母が子に会いに僕らの住まいにやってきた。義母からすると初孫だったのでそれはそれは可愛がってくれるのだろうなと目論んでいたが、想像以上にメロメロであった。してやったりな気持ちになるも別に僕の手柄ではない。

お正月といえば自分が身内の家に赴くというのがこれまでの過ごし方であったが、今年は身内を家に招くということになっている。これは”大人のやるやつ”である。こんな日が僕の人生に訪れようとは。なかなかに感慨深い。

お正月×身内=ごちそうであることは疑いようのない事実である。そしてごちそうといえばお寿司。古来より連綿と受け継がれるお作法に従いお寿司の出前を取ることとした。そう、あの桶のやつである。これも”大人のやるやつ”だ。僕は今回初めてだったのだけど、みなさんお寿司の出前って人生のどのタイミングでとるものなんでしょうな。

ザ・様式美

それにしても1月1日に出前を届けてくれるというのがありがたすぎる。この年末、買い物をしようと街に出かけたら1月1日は休業であるお店というのが散見された。以前であれば営業していたであろうお店であってもだ。時代は変わったのだなと思うし、これで良いと思う。出前をお願いしておいてなんだけど、お正月は休めるなら休んだ方がよいなと単純に思う。

ただ、義母の勤務先の製造業は年末年始関係なくフル稼働だそうだ。デイリー品だしあまりお正月にニーズのある製品ではないように思うので”やってる感”が好きなタイプの上層部なのだろうか。でも欠品するというのはイメージとしてもやはりよくないのでそう言う面からも稼働しているのかもしれない。難しい話ですな。

話はお寿司に戻るのだけど、僕と妻の間で「お寿司を食べた後ってケンタッキー食べたくなるよね」という共通の認識がある。さっぱり食べすすめているうちに胃にこってりしたものをぶち込みたいという衝動に駆られるのだ。お腹自体は結構満足であるにも関わらず脳が満たされていないと訴えかけてくる。

義母も妻の母である以上同じ思考回路であるに違いないと断定し、事前に用意しておくこととした。ただ、手頃なケンタッキーというのが近場にない。ケンタッキーはアメリカ風唐揚げであろうということで唐揚げでも作っておくかと唐揚げに唐揚げた。

これで完璧だ。ナイス判断の我々夫婦とドヤってみたが、義母から唐揚げ問題について言及は特になかった。あれ、おかしいな…まあ良いか。

義母と我々家族のまったりタイムもつつがなく過ぎ、今年もお世話になります的な挨拶をしつつ義母に別れを告げた。

この年齢になってくると自分の中の定型的お正月の過ごし方というのはあるもので、普段と違うパターンのお正月を過ごしてみると思いの外お正月感というのが感じられなかったが、こういった客人をお招きパターンも新鮮であった。逆に自分の中のテンプレートを作り上げるというのがそれぞれの”お正月の過ごし方”であるのだろう。ま、それも風情ってやつですか!(たぶん違う)

けいさんゲーム さんすう1年みたいなゲームの広告

ここのところずっと心に引っかかりを感じていることがある。YouTubeを視聴している合間に流れる広告のことだ。

ひと昔前の香港の映画スターみたいな見た目の男がなんらかの方法で上空から地上に引き摺り下ろされ、塔なりダンジョンなりのシチュエーションで数字の低い順に敵を倒していくというゲームの広告が流れるのを見かけたことがある方もいるのではないだろうか。

広告を見るたびに思うのだ。

「え?なんなんこれ?」

と。

主人公にも数字が割り当てられており、その数字が敵より大きければ敵にアタックし、r敵を倒してその数字が加算されるシステムのようだ。主人公の数字が2、敵の数字が1の場合アタックでき、その結果敵を倒し数字を吸収し主人公の数字は3になる、みたいな感じで。

数字の概念を理解している者であれば失敗しようがない内容でしかない。1より5の方が大きい。5より15の方が大きい。手持ちのお金が1,000円しかないのに5,000円の買い物はできない。できるとしたら面倒な上客か反社がそこに存在するのみだ。僕の生きているこの世の中ではそのようにルールが決まっている。

でもその広告の中のデモプレイでは主人公の数字が10のときに15の敵にアタックするのだ。「どこにチャンスあった?」「そういう世界線あり得るの?」「コペルニクス的転回?」などとその行動の意味を考えてしまうのである。ゲームの広告のふりしてもしかしたら哲学を投げかけられているのかもしれない。だとしたら迂遠にもほどがある。哲学の話がしたくて仕方ないソクラテスだってもう少し直球投げてくるわ。

最近YouTubeをよく見ているのでこの広告も必然的によく見ることになるため、見るたび妻に「これ、ゲームとして成り立ってる?」と問うている。そして妻の答えは「気持ち悪いよね」等と往々にしてネガティブである。というかあの広告を見て「よし、やったろ!」となるひとがいるのかがまず謎だ。あれだけよく流れるのだからそれなりの広告費をつぎ込んでいるのだろうから結果出さないとだろう。

僕はさすがにやってみようとは思わないものの、なんだかんだでこんなに気になってしまっているのだから広告としての成果はあるのかもしれない。やる気はないけど気にはなるのでネットで検索してみたところ、やはり「あれなんなん?」勢はいるとみえ、解説しているページに辿り着いた。

それによるとあの広告、嘘広告らしいのだ。ダウンロードしても小学校1年生の数字のお稽古ゲームは遊べないらしい。マスキングしてあのゲーム内容って本物どんなんなのかと思ったら本当に普通のいかにもスマホゲームといったオート操作のベルトアクションゲームなのだという。それもそれであまり面白そうとは思えないけど、あの広告の方が引きがあるとも到底思えない。強いて言うなら「これなんなん?」からの「いやいやいや、まさかこれがこのままゲームになってるわけないでしょう」という気持ちにさせてダウンロードさせるという騙し討ちであるのかもしれない。いずれにせよ空虚だ。

上記から広告のゲームは存在しないのかと思いきや、”逆に”というかなんなのか、「ないなら作っちゃえ」と広告のメーカーとは別のメーカーが勝手に広告のゲームを作ったらしい。したたかってのはこういうことを言うのかもしれない。そのゲーム内で嘘ゲームの広告が表示されまくっているらしいので入れ子形式の嘘が出来上がっているのがなかなか興味深い。

そういえば僕がこどもの頃、ファミコンで”けいさんゲーム”というそれこそ数字を覚えたての児童が数字に慣れるためのゲームがあった。クリアなどという概念はなく、ひたすら足し算、引き算をするという虚無の時間を積み重ねていたので、もし僕が今こどもであるのなら広告のゲームに時間を溶かしていたのかもしれない。

年の瀬に何考えているんだろうなと我ながら思う。でもこういうどうでもいいなあということを考えながらくだを巻くというのが若い頃から結構好きだったりするので来年もこんな調子でやっていこう。

それではみなさま良いお年をお迎えくださいな。

塔っぽい写真



敗者復活戦で6割うまい

職場の近くに九州とんこつラーメンを謳ったラーメン屋がある。店の名前に”博多”の文字が入るような店名で、看板の色は黄色。知る人からすれば歌舞伎町などにも存在した博多とんこつラーメンのチェーンを彷彿とさせるものがある。というか絶対そっちに寄せていると思うのだ、あれは。

これだけ”本場感”を出しているので普段ラーメン屋によく行くものとしては否が応でも期待は高まるというもの。その本場感は店側からの宣戦布告と受け取りハードルをぐいぐいと上げて入店したのだった。

「いらっしゃいましぇ〜」

若干の違和感。あれ、外国の方?まあホールのひとはそんなものかと食券を買い、店員さんに渡すとごりごりの外国語(たぶん中国語)でキッチンにオーダーを通していた。もちろん応答も同じ言語で返される。よくみると店内にいる店員さん全員日本語以外で会話していた。なんならそのとき客は僕しかいなかったので日本人は僕だけだった。無駄に旅情を掻き立てられたわ。

あれだけ九州、博多をアピールしておいて調理するひとまで含め店員さん全員外国人か…これはもしかしたらトリッキーな闘いを強いられることになるやもしれぬと覚悟を決めラーメンが提供されるのを待った。

ここでひとつ申し添えておきたいのが、僕はどのお店でも店員さんが外国人であることに不満を持つタイプではないし、きちんとしてくれればそれでよいと常々思っている。しかし、なんというかラーメン、殊更こういった九州とんこつのラーメンって「九州の魂込めてます!」という向きがあるという印象なのだ。それが九州全然関係ない飛び越して外国の方がすべての行程を担当されるとなるとラーメンスピリットが燃えたぎっていないのではないかとちょっと不安になってしまったということなのである。

そういった気持ち胸に抱えつつ素直にラーメンはサーブされるのを待つ。博多とんこつといえば細麺。比喩でなく秒でラーメンが提供される。オーダーしたラーメンもそのスピード感で運ばれてきた。ここまでは僕の知る博多とんこつラーメンムーブだ。

あ、なんか意外と…

店名から想像できる、かつて歌舞伎町に存在したラーメンチェーンの提供していたラーメンの趣がある。こってりというよりはクリーミー系のさらっとしたとんこつで、替え玉することが前提のスナック感覚のあのあれである。

それではいざ実食。

食べてみると思い出の味を上回りも下回りもしない想定内の味。店内の雰囲気からめちゃくちゃ構えていたけど全然ありだ。全然ありなのだけど、満足感としては6割くらいの「これがいい」ではなく「これでいい」といったどこか妥協感のある味わいなのが1周回って滋味深さすら感じる。「ラーメン食べたい!」で来店するというよりは「食べるもの決まらないな…ラーメンでいっか」のときの一品である。

めちゃくちゃ失礼なこと言っているかもしれないけど、頻回ではないにしろきちんとリピートしているのでまあなんというかぬるま湯くらいの温度の愛情をもって接しているのは確かだ。

実際昨日の出社時もこのラーメン屋に行った。なかなか食べたいものが決まらずにうろうろしていて、行きたいラーメン屋が思いついたので行ってみたら行列ができており心を折られて「うーん、あのラーメン屋でいっか…」という敗者復活戦くらいのテンションで訪れたのだけど。

そうして普段頼まない黒とんこつなるメニューをオーダーし「黒の質感が夏の田んぼっぽいな…」と思いながら「よしよし、6割6割…」と思うのであった。

レギュラーメニューに熱烈な思いもないので冒険できちゃう

そんな都合の良い関係のラーメン屋。忘れた頃にまた行くのだろうし、6割満足のお店であり続けて欲しいとすら思っている。

シタールで人生をアバンギャルドに

え、ちょっと待って。年末ってマジですか。

気づいたら今年最後の週に突入しているではないか。昨日クリスマスだったのにその1週間後に年が明けているだなんて信じられない。例年もう少しクリスマスと年明けの間に時間あったでしょう。絶対去年と仕様が変わっている。神様がカレンダーの使用を変えたのだ。エクセルで無駄な列を削除するみたいに去年まであった日がどこか削除されているに違いない。

動揺してみたところで今週で今年が終わってしまうのは抗いようのない事実。僕は神様の仕様変更に対してctrl +zを繰り出す術を持ち合わせていない。残り少ない2022年を少しでも有意義に過ごそう。

欲しいものを手に入れるというのも気持ちが満たされるということである意味有意義と言えると思う。これといって欲しいものがあるわけでもなかったのだが、昨日買い物に出かけた際にショウウインドウの展示物に心が動かされた。

シ…シタール…!!

シタールである。しかも2万円ほど。ジャンク品であるといえどもあまりにも安い。というか楽器として安い。思わず衝動買いしてしまいそうになったが、勢いで購入し持ち帰ろうものなら妻からバチボコに叱責される未来が見えた。王蟲を隠すナウシカムーブみたいなことをかましてしまうところだったよ。「きちゃだめー」っつって。ナイス予言、おれ。

そう思い購入はぐっと我慢したものの、シタールといえばちょっとした出物感がある。やはり発見の喜びは共有したい。妻にシタールが売られていたことを報告したところ、

「え!シタールいいね!安いし!」

とのリアクション。

そうなんですか、そうきちゃうんですか。これは年の瀬に今年最もふわっとした欲しいものを買ってしまうかもしれない。子が生まれたタイミングに現れたシタール。これはもう兄弟同然。シタールと共に人生を歩んでもらうしかない。弟はシタールですと言って弟の身を奏でるのだ。アバンギャルドな人生、結構。

妻が思いのほかシタール受け入れ体制が整っていたのは理由があった。ずいぶん前にBUCK-TICK(バンド)がテレビ出演の際にギターの代わりにシタールを持って出演したことがあり、その映像を見ていたので”シタール=なんかかっこいい”というイメージが形成されていたのだ。BUCK-TICK御大のやることにゃ間違いがねえ、というわけである。

それにしてもシタールなんて売っているものかと驚いたが、売られていたお店があるのは高円寺。シタール、ありそうでしかない。日本のインドと呼ばれるこの街にシタールがあるのはごく自然だなと思い直すのであった。これが西荻窪あたりだとウッドベースとかそのあたりのものが似合ってくるので街のイメージってあるものだ。

仕様変更の年末、思いきった買い物(物品として)もありかもしれない。

下半身キュっとなるクリスマスの思い出

メリクリ。

ぽつりとそうつぶやいてみるも、少しもクリスマスという実感がない。大人になってからというものあまりクリスマスを意識しないようになったというのと、今年はあまり家から出ていないのに加え、テレビもないので世間の流れについていけていないというのが理由としてあるかもしれない。

なにかと斜に構えがちではある僕でもクリスマスに関しては逆張りの気持ちなど一切なくごくナチュラルに日常と化していったのだ。

妻もわりとそういうタイプの人間で、イベントごとなどに執着しない。クリスマスはともかく、その他の人生の記念日に関してもあまりこだわらないタイプなので記念日を失念することによる”やらかし”が発生しないのはありがたい話ではありながら、反面寂しくもある。

この間、結婚記念日だったのだけど、僕が記念日の終わり頃に「今日、結婚記念日だよ!」とうわずり気味に伝えたところ「忘れてた笑」とだけ答えがあった。今年は妻は入院中だったし、特に何かお祝いしようとかいうつもりがあったわけではないのだけど、本当にこだわっていないのだなというのがうかがえるリアクションであった。ちょっと寂しくないですか、こういうの。まあいいんですけど。

そんな調子なので妻とのクリスマスの思い出はほぼない。強いていうならまだ20代の頃、妻(そのときは彼女)と同じマンションに住む友人とクリスマスを口実に酒を飲んだことを思い出す。

その友人とはイベントごとなど関係なくほぼ毎晩酒を酌み交わしていた。その年のクリスマスも日々の飲酒活動の延長として酒を飲んでいたのだと思う。ほぼ惰性とはいえさすがにクリスマスですし、ということでクリスマスらしい食べ物と調達したりしていた。アイテムとしては以下。

・ローストチキン(1羽)

アメリカンソーセージ

・チョリソー

思い出せるものとしてはこの程度。たぶん他にも用意していたと思うのだけど忘れてしまった。ただ、この中のローストチキンとチョリソーが大事なのでその他はどうでも良い。

1羽まるごとのローストチキンを買ったものの、うまく切り分けられるわけでもなく、お酒を飲み始めたらそこまで量を食べられるわけでもないので、わりときちんと酔っ払うまでその姿を残したままテーブルの上にチキンは鎮座していた。

酔っ払いの目は余計なものを見つけ出すのに最適化されている。僕はチキンの後部に穴があるのに気づいてしまったのだ。(人間でいうと身体の背面、臀部付近の穴と思ってください。)そしてチキンの横にはするりと長いチョリソー。

「あー…これは…」

チョリソーはチキンの収まるところに収まり、下半身のキュっとなる思いをしたのであった。

酔っ払っていたからケタケタ笑っていたと思う。端的に言って最低の思い出である。そしてそこに妻もいてその一部始終を見届けているのだけど、幻滅されなくてよかった。そういうひとでもなければ結婚までしていないか。

クリスマスといえばそんな思い出しかない程度には本当に思い出がない。世の中ロマンチックに過ごしがちなクリスマスだけど、下半身がキュっとなるクリスマスもあるのだということを心に留めておいてください。🍗

西城秀樹の衣装みたいのをとると結構脚だなというパーツに出くわす