普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

知っていれば楽しむのかもね。僕以外の誰かが

夏、到来である。酷暑日の訪れによりようやく夏を感じるようになっているあたり、地球パイセンにきっちり調教されている。いわゆる危険な暑さではあるのだけど、その灼熱に心のどこかで高揚感をおぼえている自分もいる。

でも、今日思った。これ、死んじゃうなと。日中日差しのある中にいたら30分ももたないで具合が悪くなってしまうし、それ以上いたら命に関わるだろう。暑いっていうかもう熱いの域に達しているんじゃないか。なんかもう別の季節の名前をつけた方がいいんじゃないかとすら思ってしまった。それでもやっぱり冬よりはこの改名の必要がありそうな灼熱地獄を愛しているわけだけれども。

とはいえ、それもクーラーありきの話で、クーラーがない前提だったらとてもじゃないがこの殺人空間に身を置くことはできない。条件付きの愛である。こんな非常識な事態を発生させておいてありのままの自分を受け入れてもらえるなんて思わないでほしい。

昨日、今日とそんな気候なものだから、お昼ご飯を食べに行くのだって覚悟が必要となる。昨日は出社をしていたので職場近くのラーメン屋へ。職場から外に出て、お店までの間はもはや蒸し風呂状態である。それこそもう本当にサウナに入っているような状態と言っても過言ではないだろう。それを考えるとその状態を経てクーラーの効いたお店にインするのはさながらサウナ→水風呂の流れからの”整う”を生み出す状況に他ならない。お店までの道中、ラーメンそのものよりもキンキンに冷やされた店内による”整い”に胸を躍らせながら向かい、ほどなく到着し入店を果たした。

 

むわ〜

 

あっっつ!

店内はまったく涼しくなかった。クーラーが全然効いてない。それどころかラーメンを茹でる鍋の蒸気が原因だと思われるが、なんか湿度高い。日差しがない分外より気温が低いのはわかるけど、外よりこっちの方が蒸し風呂の再現率高いんじゃないかと思えたほどだ。

とてもじゃないけど真夏にラーメンを提供するお店の温度ではない。でも、ここのラーメンを食べたいってことでせっかくきたし、腹を決めよう。券売機にて食券を購入、ラーメンを食べる前からラーメン食ってひと汗かきましたみたいな顔で着丼を待った。

あっつあつ。よし、やってやろうじゃねえか。

この時点でもう汗びっしょりだったけど、あっつあつのラーメンをすすることで毛穴からの放水に拍車がかかり、食べ終わる頃には行水したんかという有様であった。

いやー、交えた交えた。一戦交えましたよ。こんなに覚悟を必要とするお昼ご飯、久しぶりだった。ラーメンはおいしかったけど、もうそういうことじゃないな、これは。ふつう、灼熱の炎天下から蒸し風呂状態の店内に入り、あっつあつのラーメンを食べようと思わない。なんかもう、途中「こういうアトラクションなんじゃないかな?」と思うほどには非現実、非日常を味わえた。むしろ、知ってたらそれを楽しみにくるひとだっているくらいかもしれない。そう思うとやっぱりアトラクションだ。

サウナだってそういう空間って知っているからそれを楽しみに行くのであって、あの状況を強制的に体験させられたら過酷な空間でしかない。というかそれ、真夏の帰宅直後の室内だな。あの状態からクーラー効くまでの間、ほんとつらい。

ものは考えようってことでね、真夏の灼熱ラーメン屋だってそうと知っていれば楽しめるものかもしれない。まあ僕はこの夏の間はこのラーメン屋にはもう行かないだろうけど。なにせ条件付きの愛をもってこの暑さを愛しているので。

ユーモアのリバイバルをいまだ知らない

連休だというのにどこにも出掛けていない。それどころか何もしていない。かろうじて土曜は散髪と散歩に行ってきたくらいだ。

散髪は美容室に行っていて、ほぼ雑談しに行っているみたいなところがある。そこで今回話題にあがったのが、最近ゴールデンタイムのバラエティ番組って見てられなくなってきちゃいましたよねという話。今が旬の芸能人が豊富に出演し、テンション高く番組が進んでいくあの感じ、なんか無理になっちゃったよなと。

でもたぶん、あの感じが人気だから最も視聴率のある時間帯で放送されているわけで、テレビを見たいひとというのはあの感じを求めているということなのだろうから、僕らが時代についていけてないだけと言ってしまえばそれはそうであると思う。

ただ、時代についていっていないながらも、80年代とか90年代のバラエティとかを今見たらその無茶苦茶ぶりにけっこう引いちゃうかもしれないですよね、という話にもなった。

今にも何か起こりそうな80年代っぽい撮影風景(AI生成)

でもそれは正しい感覚というか、きちんと時代にあわせて感性をアップデートできているということでもあるように思え、むしろ「あの頃のテレビがやっぱおもしろいよ!」としか思えていなかったらコンプラ意識が時代とずれている可能性がある。

それにしても、時代にはついていけてないのに、かつての感覚も理解し難いとなってくると、僕らは今どこにいるのか。知らぬ間に島流しにでもあってしまっているのかもしれない。

ファッションとか、音楽とかの分野は「一周回って」という現象が起こるけど、ユーモアのセンスというのはあまりそういう話を聞かないような気がする。少なくとも戦後のユーモアセンスが一周回って流行っているみたいのは観測可能な範囲では起こっていない。気づいてなかったり知らないだけでもっと遡って江戸時代くらいのユーモアセンスがリバイバルしていたりする可能性はなくもないけれども。

表現の自由を声高に叫ばれる近代になればなるほど、規制もまた厳しくなっているというのが趣深い。これを文化の洗練ととるのか、ただただ窮屈になっているのかというところはひとにより考えの分かれるところではあると思うけれども、常に変化を続けているということには違いないだろう。

テレビについてあれこれ言ってはいるものの、まあ自宅にテレビないんですけどね。ふだん見もしないのにぶつくさ言ってんじゃないよと言われればまったくもってその通り。でも、見ないからこそ可視化される不自然さがあるのもまた事実。

この流れでいくと、冗談抜きに50年後とかテレビという文化がなくなっているんじゃないかとすら思う。番組制作がなくなるのではなく、なくなるのはあくまでも"テレビ"という意味で。

髪を切りに行ったのに世相を切ったみたいな顔してんじゃないよ!という昭和のユーモアを置き土産にして本日はこれにて。

改札フル無視事案はフルスイングの己の愚かさだった

昨日は出社日だったので職場へ。今週は通常であれば出社する火曜に休みをとっていたので、先週の木曜以来、1週間ぶりの出社であった。

職場には入館セキュリティの自動改札みたいなものがあり、入館カードをタッチしてそこを通り抜けるわけなのだけど、昨日の朝、いくらタッチしても改札が反応せず朝から大いに狼狽してしまった。

こういうやつ。よーく見ると扉は閉まってる。

エラーとかではなく、機械とカードが無関係であるかのごとく、まったくのノーリアクション。これが学校内の教室で発生したら悪質ないじめなんじゃないかなというくらいに改札はカードを完全にフル無視し続けた。

けっこうギリギリの時間で出社しているものだから、ここで時間をかけていたら遅刻してしまう。なりふり構ってはいられない。幸い朝なので人通りはそれなりにある。入館カードを忘れたひとがたまにやる、誰かの後ろにぴったりくっついて改札を通り抜ける、いわゆる”キセル方式”で入館することを決意。まったく知らないひとにあたりをつけて、ぴったり後ろにくっついて改札を通り抜けることでことなきを得た。

ことなくないし、得てもいないけど、とにかくその場を切り抜けたので午前中はそんなことを忘れて労働。お昼休みの時間に。お昼ご飯を食べに外に出なければいけないのでまた改札を通り抜ける必要がある。そういえば朝カードが反応しなかったんだったな、でも時間も経っているしたぶん大丈夫だろうという何の根拠もない自信をもって改札を通り抜けようとしたところ、やっぱりリアクションゼロ。これはまずいぞ。こういうのってどこに連絡しなきゃいけないんだっけ、と対応を考えながらも痴漢だったら即刻鉄道警察に突き出されるくらいにカードを機械に擦り付けていたところで

「あの…タッチするところ、違いますよ…?」

と、たまたま同じタイミングで外に出ようとしていた同じフロアで働く職員さんに指摘されたのだった。

 

MA・JI・DE!?

 

まじで?

 

ってほんとだ!なんかタッチすると通行可の矢印は表示されるところにカードをタッチし続けていた。ていうか朝も同じことしてたな。改札にはカードをタッチする専用の読み込み部分があり、そこにタッチしなければカードが無反応なのは当たり前なのである。

いや当たり前でしょとしか思えない話なのだけど、僕は矢印の部分でカードを読み込むと信じて疑わず無関係な部分にカードをタッチし続けるという抜けハラ(通り抜けハラスメント)を行っていたのだ。

指摘してくれた職員さんは「今のはヤバかったですよ笑」と笑ってくれたが、こちとら朝も同じことを繰り出しているのでガチヤバである。さすがに「朝も同じことしちゃってたんですよね〜」とは言えなかった。

こわい…自分の愚かさがこわい…ただまあ、いつかの正月連休明けには10日ぶりくらいに出社したら自分が働いているフロアがおぼろげになったりしたし、1週間ぶりの出社となったらこれくらいが適温の愚かさだろうか。

今年はリフレッシュ休暇なんかも取得できて2週間とか休みになる期間ができる予定なんだけど、そんなに休んだら自分がどこで働いているか忘れちゃうかもしれない。

餃子定食の主役はお米か、餃子か(伏兵:激強もつ煮)

昨日は子の用事で休みをとっていた。とはいえ、手続き関連のための休みだったため、子は保育園へ。用事は午前中で終わる見込みだったので、在宅勤務であれば午後から働くことは可能だったけど、そんなせせこましいことはせず悠々と全休を楽しんだ。

ちなみに妻も同じく休みをとっていたので用事は共にこなした。ということはどういうことかといえば、用事を済ませちゃえば久しぶりの大人だけの時間到来である。いやね、子は本当に目に入れても痛くないほどにはかわいくて仕方ないし、どれほどだって愛情を注げる存在だけれども、それとこれとは別というか、やっぱり大人だけで息抜きする時間も大事よ。

というわけで、さっさと用事を済ませた後は夫婦でお昼ご飯へ。よくウーバー等で届けてもらうお店に食べにいくこととした。在宅勤務中のお昼ご飯でいくにはちょっと遠いし、かといって幼児連れで行くようなお店ではないので、実店舗にくるのはもう何年ぶりだかというくらいに久しぶりだった。

そのお店は餃子のお店で、届けてもらっても当然おいしいのだけど、やっぱり温度のあるものは出来立てこそが至高。期待に胸を膨らませながら餃子定食をオーダーした。

羽っていうか建造物の基礎みたいなことになっているよね

頼んだのは餃子+もつ煮定食で、当然定食セットともつ煮が同時提供されるわけなのだけど、お皿の数が増えるとどう写真を撮ってよいかわからない。ので、とりあえず餃子だけの写真を載せてみた。

定食の全貌を公開するとこんなである。

指入っちゃってるの気づかなかった

米、主役かよ。いや定食なんだからある意味主役っちゃ主役なんだけど。というか僕の撮り方の問題なんだけど。と、自分で書いておいて思ったけど、定食の主役は米なのだろうか。定食である以上米は必須の存在ではあるけど、○○定食となったらやっぱり○○の方が主役か。この場合で言えば餃子が。

でも、お米を食べるための餃子であるわけで、お米を引き立てるために餃子がいると考えることだってできる。その場合のテーブルの上のヒエラルキー最上位は米である。圧倒的なスター性を持ちながらお米の引き立て役になれるなんて、素敵じゃないか、餃子。この考え方に基づくと上の写真も事実に即したものであり、一歩引いた位置で写真に写る餃子のいじらしさを写真に収めることができたものだといえよう。

いえよう、じゃないんだよ。撮り方失敗してるだけだよ色々と。せっかくおいしいものを食べたのにしょうもない写真しか残ってなかったら息を吐くように適当なことを言ってしまった。やっぱ主役は餃子っすよね。

せっかくだから「定食」だけの写真も。

でもこれだと飯泥棒のもつ煮も入ってるから家だったら立派に1食分

言わずもがななんですけれども、味は最高。にんにく不使用(別添え)であるにもかかわらず、餃子であることのアイデンティティを色濃く感じさせつつ薄皮、小ぶりのエレガント餃子でございました。ムッシュ。

ちなみに妻は坦々冷やし中華みたいなめちゃくちゃビジュ強のおいしいものを食べていて、その写真も載せようと思っていたのだけど、器が銀のぴっかぴかのやつで、よくみたら器にスマホとか自分とか映り込んでいたので掲載を控えた次第です。

こんなに最高なお昼ご飯を食べながら、食べ終えてもまだ12時くらい。休みって最高だな。このままどこかへ出掛けてしまいたい気持ちをぐっとこらえ帰宅。お迎えの時間までは家でanoneというドラマを見て過ごした。通貨偽造、ダメ、絶対。

「創作」という言葉の寿命が近いのかもしれない」

一時期ほどではないにしろ、AIによる”作曲”を楽しんでいる。そして、けっこう好みの曲にも何曲かはたどり着いた。しかし、やっぱり曲がりなりにも元作曲などもしていた人間からすると、どうしても「作曲しました!」と胸を張って言えないなと思えてしまう。

音楽だけではなくイラストもそうだとは思うのだけど、あくまでもやってることはディレクションで、「こういうのが欲しい」を伝えてAIが「じゃあこんなんどう?」と出してきたものに対して「いいね👍」となっている流れである。

言ってしまえば好みの音楽を引き当てた、というのが一番近いように思う。好みの仕上がりになるまでブラッシュアップしていく語彙力とか知識の引き出しというのは当然必要になってくるし、それらを駆使して満足いくものが仕上がっているのはそのひとのセンスであるのは違いないのだけど、どういうことか考えれば考えるほどにいちからの創作ではなくディレクションなのである。

知識とセンスだけあればある程度のクオリティのものが手に入ってしまうということで、要は何を言いたいのかといえば、「音楽の心得(楽器演奏とか)がないひとがAI作曲でドヤってきたらいやだな」ということに他ならない。我ながら器の小さい話だなあとは思うけど、こう思う音楽関係者は少なくないのではないかと思う。だって根本から発想が違うもの。成果物としては大差ないかもしれないけれども、そのプロセスに関しての美学とか矜持がそこにあるのかと思ってしまう。

情報源がツイッターなので、真偽のほどは定かではないが、イラストレーターの採用面接で、紙に印刷されたポートフォリオを持って面接にきたひとに対してadobeやその他のイラスト制作ツールの利用状況を尋ねたところ、どこも利用していないと回答があったという話がある。

え、じゃあどういうことなの?と話を聞いたらAIで生成したイラストをポートフォリオとして携えて乗り込んできたというのだ。

これが現実ならコペルニクス的転回である。その発想、なかったよね、と。というかそれやっちゃうんだというか。それというのも、そのひとは自分でイラストを描くということをしたことがないからそれができたのだろうなとも思える。AIを駆使した成果物を自分の実力により生み出されたものだと疑わないからこそ成し得た所業であろう。

音楽生成AIのくだりで言っていた、「心得がないのにドヤっている」とはまさにこのことなのでは。たぶん悪意とかなく、単純に「どうっすか!?」って感じなんだろうと思われる。

それでよいわけないだろうってのが最近になって人生にAIが絡んできた人間の発想なわけだけど、AIネイティブ世代とかになってきたら「むしろ何がいけないんですか?求められているものはできているのに」とナチュラルに思うのだろう。

まあ確かにそうなんだけど。そうなんだけどなんか違うんだよなー…と思ってしまう創作過程の美学とか矜持云々言っているのって本当に旧世代の考えになっていくのかもしれない。そうなってくると創作という言葉の意味そのものの解釈が異なる時代が訪れるのか。まじシンギュラリティ。

でもなんだかんだ言って添える画像はAIで作っちゃう

 

全力に振りかぶった言い間違いで動き出す夏の始まり

ようやく夏っぽくなってきた。昨日のお昼に「さてお昼ご飯ー」と外に出たらもわっとした空気。うんざりしそうなものだが、僕の心はそのとき確かに踊ったのであった。自分でも意外なほどに夏を楽しみにしていたのかもしれない。

20代の頃なんかは夏か冬でいえば冬の方が好き、というか過ごしやすいと思っていた。冬は寒ければ服を何枚だって重ね着すればよいけど、夏は服を脱ぐのにだって限界がある。空調なしで過ごすなら冬に限るわいとすら思っていたのだが、今や冬には何枚重ね着しても芯からの冷え込みには抗うことができなくなってきた。それに比べると夏は身ひとつでいられる。照りつける太陽を愛おしく思えるようにさえなってきたくらいだ。人生で色々滅却することにより暑さに強くなってきたのかと思いたいところだけれども、実態は暑さを感じることに鈍くなってきたのだろう。なんか耐えられちゃうというおじいおばあのアレの境地に近づいているのだと思われる。夏の喜びを辿っていったら老いにたどり着いてしまった。見なかったことにしておこうと思う。

その夏の喜びで心を躍らせる少し前、昨日はお昼の時間の電話番として昼休みの間、自席にて仕事をしていた。近くでは同じ島で働く姐さんが仲の良いひとたちとお昼ご飯を食べている。話し声も耳に入る距離だったので、お昼ご飯も食べ終わった頃、その中のひとりが姐さん相手に必死に訴えかけている声が聞こえてきた。

「ほら、あの東京と千葉の間にあるホタルイカみたいなやつ!」

ん?

 

……

 

え、うみほたるでは…?

 

ひどい。いくらなんでもひどい。でもなんかニュアンスとしてはわかってしまうところはあるスレスレのラインだ。

この雑さ、さすがに見過ごすわけにはいかず、席をたち「いくらなんでも今のはひどすぎやしませんか?」と、つっこみを入れに行ったところ、そのひとが言う。

「私なんてまだましだよ。姐さんなんかこないだもっとひどかったんだから」

話を聞くと、同じようにお昼ご飯を食べていたときの会話で、姉さんは母性本能という言葉をどうしても思い出せず、ずっと「マザー牧場!マザー牧場みたいの!」と連呼していたらしい。

確かにもっとひどい。でも、これまたなんかわかってしまう絶妙なラインだ。愛が溢れて豊富な感じというあたりで根っこは母性本能とはマザー牧場なのではと思わせてくれるところがないこともない。

母性本能で愛の洪水を起こしているマザー牧場

というかあなたがた、なんとなくで会話しすぎでしょう。でもそれがよいところか。おかげで電話番の間退屈しないで済んだし。というか電話きちんと出なはれや。

今年の夏の滑り出し、なかなか好調である。

道はどこからか続いて、強きものとの共存の道へ

子が最近「道はどこから続いているんだろう?」と質問してくる。どこに行ってもどこかしらから道が繋がってるのだから確かにその出どころが気になるのは単純に疑問を抱くことに納得できる。しかし、大人のこじらせフィルター(僕)を通すと、何か哲学めいたことを言っているのではと思うくらいには人生こじらせきって生きておりますが皆様いかがお過ごしですか。

でもまあ、そういう素朴な疑問って大事だよなと思う。歳を重ねるにつれてだんだんとあたりまえをあたりまえと捉えすぎて思考が鈍化してきてしまっているのかもしれない。自分にだって色々なことについて素朴な疑問を抱いていた頃があっただろうに、今やこのざま。子育てとは自分の子供時代との邂逅であるとも言えるのかもしれない。

そんなエモい気持ちに浸ろうがなんだろうが、大人になると道がどこから続いているかではなく、どこへ続いていくかであるので大人の道は職場に続く。昨日は出社日ということで職場へ。社給のスマホの入れ替えがあるということでそのセッティングを行った。

この間自前のスマホを機種変したばかりで、その時は旧スマホの隣に新スマホを置いておくだけでほぼ作業が終了したのに、社給のスマホ入れ替えはやたらとやることが多い。セキュリティの面とかそういうところの絡みなんだと思うけど、めちゃくちゃめんどくさい。

そんな面倒な作業なものだから、同じ島で働く姐さんは絶対に頓挫すると自ら察していたらしく「スマホ入れ替え、一緒に作業しようね!」と、入れ替えが決まったときから僕にお声がけをいただいていたのであった。

当日である昨日、新スマホ片手にあれやこれやとセッティングを進め、姐さんが手順に詰まれば「あ、ここはこうっす」と手を差し伸べながら順調に作業をこなしていった。

ある程度進んだところで、僕が打ち合わせで席を外さなければいけなくなったため作業を中断。じゃあまた後でやりましょうね!と小一時間経過の後席に戻ると

「終わった✌️」

いやピースじゃないんですよ。なに抜がけしてるんすか。一緒にやろうねって言われていて、きっちり伴走しようと思ってペース調整してたりしてたのに、なに終わってんすか。学生時代にマラソン大会で「一緒に走ろうね!」って言っておきながらがっつり置いて行かれるあの状況か。まあ僕にはそんな経験ないですけれども。

もう、とか思いながらもぽつねんと置いて行かれたままでいるわけにもいかないので、中断していた自分の作業も再開し、光の速さで入れ替えを終わらせたのであった。姐さんは自分の分は終わらせているので上機嫌だ。なんなら僕にちょっとアドバイスしようかくらいのスタンスですらある。でもまあ、姐さんが上機嫌であることは職場の平和っすからと無事終わったならなによりですよねと顔で笑って心で泣いた。

我らが子よ、道はどこからか続いて、強きものとの共存の道へと続いているのだ。それが処世。強かに賢く生きてくれたまえ。

強きものへと道は続く…