普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

年末らしさとテセウス煮込み

年末であるはずなのだけど、年末感がない。ここ数年毎年そんなことを言っているような気がする。なぜなのだろうと考えてみたところ、いくつか思い当たる節がある。

バンド活動をしていた頃はクリスマスあたりから年末にかけてライブのスケジュールが増え、否が応にもその年が押し迫っていることを感じることができた。なんだかんだと理由をつけてイベント打ちますからな、ライブハウスというのは。あとそういえばカウントダウンライブとかもしてたな。

バンド活動をしていなかった時代、要は10代くらいまでだとテレビによって作られた年末の雰囲気を感じ取り「あ〜、今年も終わりか〜」などと思っていたように感じる。年末特番が増え、大晦日も紅白やらなんやらとテレビに依存した風物詩を楽しんでいたとと思う。

それがバンドもやらなくなり、テレビも見なくなり(というか家にない)ということになると、過ごしたいように過ごす日常が連綿と続くだけなのである。もうこうなってくると自発的に年末らしさを醸していくしかない。

それにしても、年末らしさとはなんだろうか。前述のように僕の年末らしさの手持ちのカードはテレビとバンドのイベントだけだった。ここで新たなカードを得ていきたいところ。

例えば、12月に入った時点でなんかやたら仕込みに時間のかかる料理に着手するとかよいかもしれない。そうすることで「今年もこの時期が来ましたか」と、外部の情報で年末を感じるのではなく、能動的に時節を感じることができるのでは。

じゃあ、仕込みに時間のかかるものってなんなのという話であるが、やっぱり煮込み系であろう。牛すじだったりを煮込みに煮込んで仕事納めの日に最高の酒の肴に仕上がるように手間暇かけるのだ。着地点目指して煮込むのだからアドベント煮込みである。煮込んでいる途中に遊びの具材とかいれちゃって12月を彩るのもありだ。手羽とかね。

などと息巻いてみたが、衛生管理として大丈夫なのかという心配はある。しかしまあそのあたりは秘伝のタレとかと同じ理論で毎日2回くらい火をいれれば大丈夫なんじゃないかという希望的観測でいこうと思う。よし、これだな。我が家の12月は煮込み月間だ。

秘伝のタレといえば、何十年も継ぎ足しで大事に受け継がれているもののようだが、あれってもはやテセウスの船なんじゃないかと思う。

継ぎ足しているうちに直近の継ぎ足された具材のみで構成されるタレとなっているはずで、そうなると秘伝性はだいぶ薄れているのではと思ってしまうのだ。それでもタレを仕込み始めた”あの日”から1度もタレが尽きたことはなく、その甕におさまっているというその事実が「秘伝」ということになるのだろう。

こういうので保管されてそう。たぶんされてないけど。

でもたぶん、いろんな秘伝のタレの中で、途中で切らしちゃったけど言い出せないでなかったことにして秘伝継続としているタレもあるんじゃないかと思う。内緒で新人が作り直した実は昨日作ったタレを味見して「うむ、さすが秘伝は違うな」とかしゃあしゃあという板長とかいるんじゃないかな。

全然話がそれてしまった。でもテセウスパターンの煮込みもよいかもしれない。12月1ヶ月かけて同じ仕込み汁でさまざまなものを煮込んで最終的に秘伝のタレ化を狙うのだ。来年12月、我が家に「秘伝」が爆誕します。