普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

食べ物に対してのデリカシーとは

定着しすぎていて普段は気にも留めないけれど、よくよく考えてみればそれってどうなん?となるネーミングがちょこちょこある。

目玉焼きなどもそうだ。たしかに目玉だよ。それはそうだけど直球すぎやしないか。目玉かーと思うとなんだか痛々しい食べ物に感じてくる。人間の眼球焼いてもああはならないわけだけど。

親子丼も言い切った感のある名前だ。親、子、丼の中で運命の再会である。もしかしてリアル親子丼を作ったことがあるひともいたりするのだろうか。実際いたとしたらすごいハートと倫理観の持ち主だ。

同じようなポジションだとはらこ飯も親子共演である。親子丼ほどネーミングがストレートではないけれど、「はらこ(腹子)」と表現しているのになんだか怨念めいたものを感じる。

親子丼にしろはらこ飯にしろ「子」とはいっているけれどたまごなわけで、人間でいうと嬰児くらいなんじゃないかなと思ったりもするが、そういったことを考え始めるといよいよそれらの献立を直視できなくなりそうなのでそこそこにしておくことにする。

上記のものとは少し毛色は違うものの、沖縄の中身汁もお見事としかいいようのない命名だ。うん、中身だもんな、実際。素直。食べたことはないけれどヤギの中身汁はすごいらしい。なにがすごいって臭いらしいのだ。そういうピーキーな食べ物は好みであることが多いので一度はチャレンジしてみたい。

 

どこだかの宗教で、鶏もたまごも食べて良いけれど、親子丼はダメという戒律があるという。単純に親と子を一緒に調理して食うとは何事だというもっともな理由らしいのだけど、その理論でいうとカツオだしで煮込んだ豚の中身汁は問題ないが、とんこつスープで煮込んだ中身汁はご法度となるわけか。そういものがあるかどうかは知らないけれど。あ、とんこつラーメンにのっているチャーシューはNGか。

 

ネーミングそのものはともかく、ふと我に返ると普通じゃない食べ物もある。

この間テレビを見ていたらマグロのかぶと焼きを芸能人が嬉しそうにつついている映像が流れた。それを見てああ、美味しそうだなと思ったし、実際食べたら美味しいに決まっている。目玉やその付近の身が美味しいということだってわかっている。

でもこれ、やってること屍肉をついばむ鳥と一緒なんじゃないかなということが脳裏をよぎったのだ。よってたかって魚の頭をほじくり返しているわけだから、行為そのものでいったら蛮行丸出しである。しかしまぐろの頭はうまい。うまいは正義なのだ。蛮行と美味、そのせめぎ合いの結果、文化的な生活を営む現代までかぶと焼きは受け継がれたのだろう。

 

少し考えただけでこれだけあるのだから世界の食べ物まで考えればまだまだセンシティブな食べ物というのはあるのだろう。

これらの食べ物の命名をしたひと、たぶんうんこの話しながらカレーが食べられる人種だと思う。

ちなみに僕もそっち派です。