普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

石をめくったときに石の方にくっついてそうな虫的人間から見たポカリの広告

端的に言って電車の広告がうさんくさい。中吊り広告ではなくドア横の広告枠に掲示されている広告の方である。全体的にスピリチュアル方面だったり陰謀論に寄った書籍に関する宣伝がされているように思う。

需要があるからそこにあるのだろうからその是非はこの際よいのだけど、基本的に「え、そういうのいいの?」という内容のものが多い。なんというか、弱っていたり困っているひとを狙い撃ちにしている雰囲気をむんむん感じるというか。

広告ってもともとその辺り際どい部分があるし、それもひとつの戦略なのだと言われれば糾弾できるほどのものではない。ただ、僕はそういうの好きじゃないなというだけである。

そんななか、その”うさんくさい枠”にポカリスエットの広告が掲示されていた。いつ頃かまではポカリの広告といえば美少女の登竜門的な扱いのようなところがあったが、ここ数年は少女を扱っていることには違いないが、大人数の少女が登場する団体芸ものになっている。

その雰囲気が表現しがたく苦手で仕方ないのだ。ザ・さわやか!というビジュアルで、なんというかキラッキラしているのである。これは僕が学生時代にスクールカーストの底辺にいたのでそんな煌めきに満ちたワンシーンなど体験したことがないから感じる感覚なのだろうというのは自分でもそう思う。おっきめの石をめくったときに石の方にくっついてる虫みたいな学生時代を送っていた者のルサンチマン的感情であるというのは充分に理解している。

高校を卒業したあたりからは並程度の光量で生活するようになったが、やはりティーンエイジャーの頃に心に刻みつけられた感覚というのはその後の人生そうそう変えられるものではない。稀に学生時代は暗黒だったのに大人になって異性にちやほやされることのあるひともいるが、そういうひとは学生時代のうさを晴らすように女癖が悪かったり曲がった価値観をもって女性と接していたりする。完全にハレーションを起こしていると言ってよい。ホワイトカラー系の役員とかってその傾向が強そう。

少し話が逸れてしまったのでポカリの広告に話を戻すと、キラキラ系の広告を見て「ケッ…!」と思ってしまうわけで、ドア横のポカリの広告を美しいものと賛美できない自分がいるということなのである。もっと言ってしまえば”「うさんくさい枠”にお似合いの広告だな!ハンッ!」くらいに思ってしまっているのだ。ほんと、曲がった感性を持ち合わせているなと自分でも思っております。

そういう自覚はありながらも、この感覚というのはおそらく僕が闇サイドすぎるわけではなく、一定のひとびとは同じように思っているのだろうと思っている。教室の1割程度は僕と同じような学生生活を送っているはずなのでそれらのひとびとはポカリの広告を見て心にダークマターを生成しているだろう。

あと、去年だか一昨年くらいにTwitterでもポカリの広告について賛否、というか主に否の方の意見が目立ったムーブメントがあったらしい。「Twitterだしな〜」としか思えないが、まあやっぱりそういうひとっていうのは一定数いるという事には違いない。石をめくってみないとそこに虫がいるだなんて思いもよらないものである。世間という石の裏、それがTwitterだ。

なんだか最終的にポカリに乗じてTwitter ディスってんのかみたいなことになってしまったけど、僕なりにTwitterを愛でているし、ポカリスエットはいつだって電解質を満たしてくれる心強い存在だ。

いずれにせよ、ポカリの広告みたいの作っているひとというのはスクールカースト上位の人間だったりするのかな、と羨望とも違う西陽を見るような気持ちになったのだった。むしろ僕と同じような立場だったからこそあんなん作るんだろうか。だとしたらそれはそれで闇だな〜。

 

最後に、ほんっとうに全然関係ないけど、人生で1人だけポカリスエットのこと「ポカリス」と略してた友人がいたことをご報告しておきます。中途半端に見捨てられた「エット」の立場。

こういう風景+みずみずしいエフェクト+キラキラ高校生的な広告