普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

タイパ重視VS作品の情緒

タイムパフォーマンスという考え方があるらしい。略してタイパ。あるらしいというか昔から考えそのものがあったとは思うのだけど、最近になってわかりやすく取り沙汰されるようになったというほうが正しいような気がする。それはやはり動画の視聴が生活に組み込まれるようになったからなのだろう。

今日、ネットニュースで見たのだけど、大学の講義が動画で配信されていて、その動画を倍速で視聴している学生さんがいるのだと知った。90分の講義が長くてつらいらしい。それ自体は頭に入ってさえいれば効率的だなと思う。ただ、倍速の理由が「普通に長くて辛い」だったのはただ我慢ができていないだけなのではとも思ってしまった。そこは「時間がもったいないから内容さえ理解できればできるだけ短縮したい」くらい言ってくれるとかっこがつくような気がする。それこそ本当の意味のタイパなのではないだろうか。

講義に関してはそれでも内容さえ入ってくればという前提なのでそれでよいのかもしれないが、映像作品に関してはどうだろうか。映画なりドラマなりアニメなどというのは製作者が演出として意図的に作られた間というものが存在する。倍速視聴ではそれを汲み取るのはなかなか難しいように思う。そもそも倍速視聴するタイプのひとは間云々よりも会話の流れからストーリーを理解できればよいという考え方なのかもしれないけれども。

ここまでだと僕が倍速視聴に否定的な考えを持っていると思われるかもしれないが、別にそんなことはない。そういう視聴のタイプがあっても良いし、そういうのができる世の中になったんだなと便利さに感心すらする。

でも僕は倍速視聴はしないだろう。なぜなら会話をじっくり聞かないと頭の中で意味をきちんと理解できないのだ。会話をきちんと咀嚼できないとも言える。なんなら「え?今なんつった?」とか「え、なに、どういう意味?」と巻き戻しすらする。等倍速より視聴時間がかかっているということだ。カンの悪いおっさんである。

そこを考えると倍速とかで作品を視聴してきちんと内容を理解できているひとってものすごく頭の回転が速いひとだったりするのかな。それは素直に羨ましい。攻殻機動隊とか倍速で1回見て理解してしまったりするのだろうか。

作品を倍速視聴することに関してクリエイターが苦言を呈していたことがあり、それに対して視聴者が「見る側の勝手でしょ」と反応しているのを見たが、これに関してはクリエイター側の意見に肩入れしてしまうなと思った。見る側の勝手といえば確かにそうだし、それが購入されたものであればさらにその意見は補強されるのだけど、作った側が見たひとに何かを訴えたいときに考え抜いた間があるはずなのだ。それを感じ取ることができない環境で視聴されるのは複雑な気持ちだとは思う。秒速5センチメートルとか言の葉の庭とか倍速で見たら情緒も何もあったものではないような気がするんだよな。タイパと情緒は相性悪いのか。かなり前書いたけど、どこでもドアができたとして移動時間を飛躍的に短縮できても電車で移動という情緒は残るだろうなというのと同じようなことかもしれない。

しかし時代は変化し、その時代にマッチしたものが生まれるものである。もしかしたら倍速専用の台本、演出で作品が作られるかもしれない。それでどこまで情緒を表現できるかに挑戦するクリエイターが現れる可能性だってじゅうぶんにあり得る。僕が知らないだけでもしかしたらもうそういう作品を作り出しているクリエイターはいるかもしれない。情緒新時代の幕開けも近いか。

基本的に倍速視聴傾向については静観する所存だが、YouTubeを見ていると出てくるなんかよくわからん早口広告だけは受け入れることまかりならぬ。あれ、なんであんな感じなんでしょう。なんだかイライラしてしまうし、内容も下世話で胡散臭いものが多い。僕に広告の裁量権があったらお家断絶レベルで駆逐すると思う。

人生は有限なのでタイパ重視で行動するというのは現代らしい生き方なのかもしれない。そういう意味でいうと僕はあまり現代的な生き方ができていないというか、向いていないタイプなのかもしれない。あまり気にしてないけど。ゆっくり機嫌良くってのもまたよいものです。

ところでタイパって何度も言っている間ずっと思っていたのだけど、”タイパ”ってタイ焼きパーティーの略かなって一瞬でも考えませんでしたか。たこ焼きパーティーを”タコパ”と略すように。

思ってない?あーそうですか。

思ってないそうです。

こちらからは以上です。

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