普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

成功してないのに成功体験みたいに語りがち

バンド時代の友人たちと新年会という名目で集った。そのうち古い友人となるともう20年以上の付き合いになるわけなので人生の半分以上を友として過ごしたことになる。このくらいの年齢(四十路越え)になってくると友人として気軽に付き合うことのできる人間関係ってかなり絞られてくると思うのだ。縁というのは大事にしていきたいものだなとしみじみ感じ入ってしまう。

元々知り合いはそれなりに多い方だったけど、気軽に誘える友人というとほぼいないので本当にこういう機会ってありがたい。ここ数年はコロナが会えない、会わない理由となっていたけど、最近ではそこまで神経質になる必要もない。それでもそれぞれの生活の事情などかから「会おう!」と積極的に動かないとあっという間に1年くらいは経っている。実際今回会うメンツでも去年の新年会以来というメンバーもいた。

それでも顔を合わせれば先週会ったくらいのテンションと距離感で会話ができるのだからやはり過ごした時間の濃密さがそうさせるのだろう。大袈裟かもしれないけど、運命共同体というか、人生賭けて全力で駆け抜けた時間がそこにあった。

とはいえ、会って何を話すのかといえば中身のないような駄話だし、こんなバンドがダサいとケラケラ笑って紹介しあったりする。いわゆる生産性というとゼロに近い。でもそれが良いのだ。その時間を共有できる関係性って今後知り合っていく人脈ではなかなか難しいんじゃないだろうか。

話をしているとバンド時代の話もわりと出てくるのだけど、その話をするときに気づいたことがある。僕だけに限ったことではないと思われるが、本気でバンド活動をして今は引退しているような人間はバンドをやっていたことに対して特に成功しているわけでもないのに成功体験のような話し方になると思うのだ。なんというか”やりきった感”をもっているからなのかもしれない。

志半ばで諦めた、納得いかないままステージを降りたなどという経緯があるとおそらくこうはいかない。むしろ良くない思い出として処理され、未練を感じる語り口になることだろう。

そこで思ったのだけど、この感じってもしかして「部活頑張ってました!」に近いのかもしれない。めちゃくちゃ辛いわりにはリターンが少ないし、お金になるわけでもない。でも3年間一心不乱に打ち込みましたというような部活経験があるようなひとはその頃を語るときに”やりきった感”を交えながら語ると思う。やりきったというある種の成功体験というわけだ。

まあ僕は学生時代英語部という河原の石の裏みたいな部活だったし、そもそもやりきってないのでその辺り憶測でしかないのだけど。そのうえバンド活動で言うと人生ベットしてリターンが少なすぎたのでリスキーすぎだろと言う意見もあると思う。ただそういうところじゃないんだよね、と世のバンドマンからは一定の理解は得られるはずだ。

今回はかなり少数での会となったけど、世間もそろそろ落ち着いているような気がするし盛大に”あの頃会”みたいな大きめの宴会したいな。思えばライブのたびに20人規模の打ち上げしていた。月に何本かはライブをしていたのに。そんな日々はもう訪れることはないだろうけど(訪れたら大変すぎて死んじゃうので)、節目節目で記憶の答え合わせでもしていこう。

バンドやってたのが夢の中のできごとのように思えるほどに時間によって思い出が希釈されはじめているような気がするなあ。

宴席のごちそう的なもの