昔話などの類で権力者が大きなうちわであおがれながら食べ物を食べさせてもらっているという描写がある。かつては「そういうもの」として特に疑問を抱くことなく素通りしてきたが、子を持った今、思うことがある。
あれ、赤ちゃんがやってもらうやつじゃない?と。
ものを食べさせてもらうことのみならず、権力者が生活のありとあらゆることを従者にまかせっきりで自分でこなすことがないというあれ、どういうことなのかと考えてみた。
生まれてそう経たない子というものは自分で何もできない。だからこそ身の回りの世話を焼く必要があるわけなのだけれど、物語の権力者は大人であることがほとんどだ。自分のことは自分でできる。でもやらない。なぜか。
バブみだ。
世話を焼きたくなってしまうその愛嬌こそが権力者を権力者たらしめるものなのではないだろうか。赤ちゃんといえば何もできないけどかわいくて仕方ない。大変なときだってあるけれど、面倒をみてなんぼ。なんなら面倒をみさせていただいている、それくらいの気持ちで接して然るべきなのである。権力者に対しても同じことが言えるのではないだろうか。
でもたぶん、権力者だって赤ちゃんの頃からずっと継続的にすべての面倒を見てもらっていたわけではないと思う。乳児の頃から幼児になるころ、身の回りのことは自分でしたがる時期だってあったと思うのだ。どこかの年齢で自分でしたがる→なんでもやってもらうにシフトする時期が訪れたと推測できる。
それにしてもまあ、従者は全ての事柄を面倒見なければいけないので必死である。幼き(後の)権力者が自分で何かとやってしまうと職務放棄として解雇、最悪の場合首くらいはねられる可能性だってある。その抜き差しならない状況を乗り越えてものを自分で食べないという自堕落に陥れる努力をしなければならない。
あとは我に帰らせてはいけない。身の回りのこと全てに世話を焼いてもらっている自分が恥ずべき存在であると言うことに気づかれないよう、ヒ素を盛るがごとく緩やかに蝕み続ける必要があるのだ。お友達選びも大事。からかって来る子とかいたら国家権力でさらっちゃう。
と、つらつらと書いてはきたが、世の成人男子の中でもご飯を食べさせてもらうまではないにしても、なんでもお母さんにやってもらっちゃう系のひとっていたりするわけで、そんなひとが社会性という迷彩を駆使して結婚にこぎつけたりする。そうすると奥さんになんでもやってもらっちゃう夫が爆誕するのかなと思ったりする。
「なにもできなかったあの子」じゃなくなったことを認めたくなくていつまでも世話を焼いちゃうのかなあ。愛情って難しい。
以上、子の自立について考えるでした。子よ、健やかに育ってくれい。