普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

ぼやきも5年つづけたら立派なログ

気付けばこのブログをはじめて5年経っている。今確認したら2019年の2月6日が最初の記事だったのでまさにまるまる5年。透析時間の埋め草にと始めたのでほぼ透析ごとに更新している。その記事数は750くらいだそうだ。

内容といえばぼやきとしか言いようのないものではあるが、750という数はちょっとすごくないだろうか。脳汁を垂れ流し続けている。ここに窪地があったのなら沼くらいできてもおかしくないほどにはずっと思考からもれたものが注がれ続けているということだ。このはてなブログに。はてなブログを沼扱いすんなって話ですけれども。

最初の1年くらいは誰に見せるでもなく更新していた。書くだけ書いてどこにも公表していなかったし、読者登録してくれているひともいない。自分も誰かを読書登録しているわけでもないので、アクセスは皆無であった。本当に1週間で1人とかざらだった。むしろそのひとは何でこのブログに辿り着いたんだと興味深くすらあった。

だけど、なんとなくひとの反応が欲しくなってTwitter(現X)で「ブログ書いてるんでやんす」と公表してみたりしたところ、”好きなひとは好き”くらいのちょうど良い温度感で迎え入れてもらえたのだった。期待されすぎちゃうと自意識過剰になってなんも言えなくなってしまうので。

とはいえ、見てもらえるならと、自分なりに興味を持ってもらえる話題で更新しようとしたりしていると、だんだん「誰か」に向けての記事を更新しているような気持ちになってきてしまった。

そういうんじゃないんだよな〜、と我に帰り、ふつうに日記でも書くかと思い始めている今日この頃というわけである。

これまでもふつうの日記として更新していることもあるわけだけど、4年も5年も前のことになってくると自分のブログを読んで記憶が浮上してくる出来事がいくつもある。なんなら読んでも記憶の底に沈んだままの出来事すらある。

それを考えるとマジものの備忘の手立てとしてこのブログを更新し続けることが自分にとっても良いのではと思えてくる。しかも、何気ない出来事に対してそのとき自分がどう思ったかなどを記すのだ。数年後に間違いなく覚えていなそうな心の機微を。

油そばを食べに行ったら味は好きだったけど温度がぬるくてもじもじした、など秒速で忘却の彼方案件だけど、記録していればいつでも思い出の引き出しから取り出すことができる。ひとはそれをガラクタと呼ぶかもしれないが、僕には大事なコレクションだ。

油そばについてはいちおうまだ忘れておらず、「あのときのぬるさ、なんかオペレーション間違ってたんじゃないかな…」と謎の信頼回復フラグが立ち、昨日再訪したらやっぱりぬるかった。そういうもののようだ。失墜。

これに関しては前回いつ行ったんだっけというのをブログで逆引きして時期判明にたどり着いた。便利!

そういったわけなので、ふつうの日記でいいじゃないというよりも、ふつうの日記”が”いいじゃないと思ったりするのだ。アクセスとってこうと思ったらもっと情報を発信とかしないといけないんだろうけれども、それこそネタ探しが大変で更新に義務感が生じてやりたくなくなってしまいそう。ゆるさ大事。これは僕の人生にも言えることではある。ついでみたいな感じでおっきめのこと言ってみました。

5年記念みたいな感じで書き出した割には普段通りのぼやきでしたな。まあこういうことよ、続いた理由って。

ちなみに、同じペースで更新を続けると記念すべき1000記事目はおそらく来年くらいになりそう。せっかくだしそこまで続けたいし、見事到達した暁にはそのときは特別感出しちゃおう🎉