普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

17年待って、必ず選択するかというと微妙

年に1度の移植外来に行ってきた。

移植外来という言葉だけを聞くと何やら精密検査めいたものを想起させるものがあるが、「わしが移植求めとること、忘れんでくれな!」のご挨拶をしに行く日である。

医師と会話をし、その後移植コーディネーターの方と会話をしておしまい。薬も注射も検査も発生しない凪に凪いだ受診となる。事実上ただのお出かけ日だ。昨日もご飯を食べに行くつもりで出かけ、ラーメンを食べて帰ってきた。

お出かけの象徴、デパートのお食事にも等しいラーメン

お出かけ気分全開でいるとはいえ、年に1度しか会わない臓器移植に詳しい方々であるので、昨今の移植事情について問うてみた。

確か去年聞いた話ではコロナの影響もあり検腎移植の件数自体が現象しているという話だった。その辺り聞いてみると去年から今年にかけては件数は全部で20件くらいとの由。これが多いのか少ないのかいまいちピンとこない。

ほ〜、そうなんですか〜とわかったふうな顔をして聞いていたところ、さらに追加で説明をしてくれた。

上記の数字のうち8件は未成年の移植らしい。そして成人以上の腎臓のみの移植は2件。未成年が待ち人数2桁(数字忘れちゃった)のうち8件であえるのに対し、成人の腎移植は1200とか(こっちも曖昧)であるというのだ。

これたぶん無理なやつじゃないですか。という顔を見透かされたのか、コーディネーターさんはさらにこのようにいう。というか先回りして説明してくれて助かるなあ。

「計算してみたんです。どのくらいで順番がまわってくるか。そしたら17年くらいですね。」

絶妙だな〜。というのが正直な感想である。その頃には僕は還暦越え。移植してまで健康体に近づくことを選択する必要があるのかどうかというところだ。

そこに関して聞いてみたところ、実際還暦過ぎ、いわゆる老人となってから移植を行った例もあるにはあるが、若いひとのように当たり前のように生活が快適になるわけでもなく、かえって透析時代の方が健康的な生活を送れていたというケースも散見されるとのことだった。

透析時代はなんだかんだと言っても2日に1回くらいクリニックでひとと触れ合うが、移植をしてそれが必要なくなったことによって社会とのつながりが希薄になり認知症を発症してしまったりとかそのようなこともあるらしい。移植をすると必須の薬もけっこう飲まないといけないからその管理の難しさも問題のひとつではあるとのこと。

いまの透析ライフが良いとは思っていないけど、ある程度おじいちゃんになってからの移植も考えものだなあと思わされた次第である。やっぱり移植できるなら早い方が良い。帰り道に活きの良い腎臓落ちてたりしないかな。

あと、聞いた話でなるほどなと思ったのが、検腎移植の臓器提供者は未成年が多いらしい。未成年の親御さんは当然若い。30代くらいまでだったりする。そうなると臓器移植に対しての理解度が高齢者とは異なるというのだ。夭逝してしまった我が子の臓器だけでもこの世のどこかで生き続けてほしいという考えも提供可の考えを後押ししている可能性はあるのだろうけれども。

逆に、老齢の親御さんは「これ以上子の身体を傷つけないでやってほしい」的な思いから臓器提供へ踏み切らないケースもわりとあるのだとか。

提供に関しては本人の意思とか周りの環境もあるので良し悪しの話ではないけど、現在の若い親御さん世代が老齢になったころ、提供に対しての意識は今と変わっており、移植の件数自体も増えていたら17年も待たないでも順番が回ってくるんじゃないかな、などと希望的観測をもって日々を過ごしてみようと思ったのだった。

年に1回しかいかないと去年何話してたか忘れちゃうので備忘も含めて書いときました。2024年のおれよ、これみて2023年の移植外来ことは思い出したかい?