普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

気になるか気にならないか、それが片付けの分かれ道

部屋の片付けが苦手だ。苦手というよりは気にならないから片付けるに至っていないというのが実情であると思う。とはいってもさすがに汚部屋レベルになるまで放置できるほど気にならないわけではないし、ふと「なんか散らかってるなあ」と気になる瞬間が訪れて片付け始めたりする。

要は気になるか気にならないかの話であって、気になるようにしていれば良いとも考えられる。例えばどういうことであるかというと、”見栄”の問題である。片付いていなければいけないというシチュエーションを作り出すのだ。

それは他人様を家に呼び入れるときなどに発動する。先週末は友人たちが遊びにきていたので「気になる」気持ちがむくむくと湧き起こり不格好でない程度には片付けができた(と思う)。これもまた微妙な話で僕からしてみたらある程度片付いたなと思っていたわけだけれど、友人の片付けレベルが僕と釣り合っていなかったら友人から見たら散らかっているようにうつったかもしれない。

これに関しては辛いものを辛いと感じるかどうかにに似たものがあって、個人差があり、その差は千差万別と言えるのではないだろうか。コンビニで売っているカップスンドゥブをひーひー言いながら辛いというひとがあれば、キャロライナリーパーを新鮮んなピーマン丸かじり感覚ていけちゃうひとだっている。両者の辛い感はどれほど説明しあっても平行線をたどるだろう。

片付け感も同じことが言える。僕と友人で埋められない価値観の差があったら僕がどれほど片付いていると思い招き入れた家でも友人からすれば「き…汚い…」となるわけである。

考え始めると僕のような人間がひと様を家に招き入れるなんてとてもとても…と卑屈そねみ人間となってしまうわけだけれど、そこは我が家の良心、妻がいる。

妻の片付け感はおそらく僕の知る限りでは相当に熟練されたものであると思われ、妻のGOサインが出ればよほどの片付け練達が現れない限り鉄壁と思って間違いないだろう。というかたぶん、妻の求めるところまできっちり片付けを行ったら友人が遊びにくる前のちょっとした片付け程度ではすまなくなる。そういう意味では僕のような超絶適当人間とのバランスで「良い具合」が保たれているのではないだろうかと推察する。推察って他人事か。よくわかってないのばればれですな。

今でも妻と僕の間では片付けレベルの格差が存在するが、これでもましになったほうで、妻と一緒にいるようになってだいぶ「ちゃんとしなきゃ」の感覚は磨かれたと思う。重力が5倍の環境で過ごしたら最初は動きが鈍くてもその環境に慣れて普通に動けるようになった的なね。ドラゴンボール的なあれですわ。これで元の重力になったときにそれはもう当初とは比べ物にならない片付け力を発揮すること請け合いなやつ。妻のこと重力とかって枷みたいに言ってるように聞こえるかもしれないですけれども例え話ですからね、念の為。

散々屁理屈こねまわしたけれども、部屋が片付いていて悪いことなんてひとつもないので「片付けろ」の一言ですべて終わってしまうのですわな。より一層のの片付け力を身につけるために日々精進していこうかと思います。