普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

ひじきと高野豆腐の煮物≠おじい

先日子のためにこさえたひじき入りつくねもといハンバーグのためにもどしたひじきが大量にあまってしまっていたので休日の朝一番からひじきの処遇を思案する。無難に煮てしまうのがよかろうと妻にその旨を伝えると、高野豆腐がストックしてあるとの由。ひじきと高野豆腐なんてジェイソンとチェーンソーくらいに切っても切れない仲である。互いにバーター関係にあると言っても良い。これはもう勝利確定であるがよりその勝利を盤石なものとするために中途半端な量が余っていた人参にも参戦願った。

渋いビジュアルだなあ

思えば高野豆腐を調理するのは初めてだ。というか、正直高野豆腐ってあまり好きではなかった。初めての入院時の腎臓食(無塩かつタンパク制限あり)を食べていた際、豆腐だと高タンパクすぎるけどまあせめて豆腐っぽいものでも的なノリで出てきた高野豆腐はほぼスポンジであった。幼心にその存在感をよくない方向に刻みつけられて以来、高野豆腐との距離は縮まることはなかったのだ。もしかしたら本当にスポンジだったのかもしれない。

しかしたまたま家にあったことだし、たぶんこどもの頃と好みも変わっていて、何より味をしっかりつけられるのだからどうにかなるだろうと軽い気持ちでこの度高野豆腐と再び向き合うこととしたのだ。

自分でこういったものを作る日がくるとはなあ…

そしたらこれがめちゃくちゃうめえんですよ。ひじきのバーターで高野豆腐くらいの気持ちでいたのだけど、おかずのメインを張れるレベルでおいしかった。

ごめん、高野豆腐よ、僕は君のことをだいぶ誤解していたようだ。おじいの食べ物だとすら思っていたよ。いや、実際こどもに好かれるようなものではないかもしれないけど、考えてみれば僕もおじいにつま先くらいは突っ込んでいるような年齢になってきているわけなので高野豆腐適齢期になったということなのか。

いよいよ高野豆腐との正しい距離感を構築できたということで、白米とともに朝食として胃におさまってもらった。いやー、実りある朝食だったな。ひじきも余らせてみるものだ。高野豆腐への印象の変化が鮮烈すぎてメインであったはずのひじきへの言及が乏しくなってしまったが、きちんと役割期待を果たしていたということはご報告しておこうと思います。

滋味深い朝食で終わらせればよいところを、ご飯をほんの少しおかわりしたい気持ちに駆られ、煮物のおかわりをするほどでもないかなと出来心でご飯にマヨネーズと醤油をかけて食べたところ、そのジャンクな味わいに脳がしびれた。高野豆腐はおいしいと思えたけれども、僕はまだこちら側に身体を残しているなと強く実感した次第。

機嫌よく朝食を済ませて気候も天気も良いので近所に散歩へ出かけることに。1週間少し前まで真顔で枯れ木だった桜の木々がだいぶ良い感じに開花している。

桜の花を綺麗に撮れたためしがない

もしかして花見、今日だったんじゃないかとそわそわしてみるもこの日は夕方以降に用事が入ってしまってたので近所の桜を眺めてひとまずよしとした。まあ、花見って言っても最初の30分くらい花に対してやんやの喝采を送り、その後数時間はひたすら酒を飲むだけという会なのでこういった散歩がてらの花見が健全といえば健全ではあるのだけれども。

春の好日を過ごし、ふだんであればこの後「良い日じゃったのう…」と酒を飲んで時間を溶かすところであるが、この日は前述の通り夕方以降に用事があった。用事というのは友人企画のライブであるが、また毛色の違う話題なのでせっかくだから次回に持ちこそう。ひとつだけ言えるのは僕にも青春の輝きみたいなもの、あったんだなということ。

そんなわけでまた次回!

ハンバーグって洋風つくねということなのでは

昨日は花見にでも行こうと休みを取っていた。

が、天気に不安があったかつ開花状況もあまり芳しくないので取りやめとなった。休みを取り下げようかとも思ったが、せっかくだから休んじゃえと特に予定のない休み爆誕とあいなった。

平日の休みをどう過ごそうかと腕まくりしてぶんぶん腕を振り回してはみたものの、鈍色の空の下へ歩み出す気分にもならず家で子の機嫌をうかがいながらゲーム(アーマードコア6)を堪能した。久しぶりにまとまった時間ゲームをやれたのでこれはこれでありな休日だったと思える。

ただゲームをやっただけで休日を終えてしまうのもだいぶ問題に感じ始めてきたので、やろうと思えばまだまだ余裕でやり続けられるというゲーム欲を抑え込み、子の食事の作り置きをしようと再び腕をぶん回し始めた。

献立はハンバーグだ。ハンバーグに野菜とひじきをいれてしまえば食べさせる側もなんかちゃんとしたことをしている感じがするし、子はハンバーグでなんだか嬉しいという好循環がそこに発生するのでは。

意外と家にある食材で事足りることを確認したものの、買い物が必要となり重い腰をあげ外に出かける。その際に近所の公園の桜でも冷やかしてみるかと足を伸ばしてみたところ、8分くらいの開花状況というこの日の行動指針を揺るがす事態に遭遇したが「今日は子のご飯作るために休んだんだ…!」と自分を説き伏せることで平静を保った。あとで他の木を見たらやはりそこまでの開花状況ではなく、この公園の木だけ異様に咲いていただけだったようだ。理由はわからないけれども。よかった。

それにしても、この時期桜の木があるお宅を羨ましく思うこともあるけれど、開花の時期以外の桜の木のデメリット(毛虫発生等)を考えると10日間やそこらの風情のために迂闊に庭に桜を植えちゃうのも考えものだよなと情緒のかけらもないことを思うなどもした。

桜事変を乗り越え買い物を続行。ハンバーグに使うお肉で迷う。鶏肉かそれ以外か。レシピを見る限りでは鶏肉が圧倒的に多かった。牛豚でも問題ないような気がしつつ、混ぜ込むものの相性を考えると鳥の方がおいしそうだしと鶏肉を購入。

家に帰り調理を開始。作りながら思う。

「これは…つくねなのでは」

イメージの問題であるとは思う。レシピでいうとハンバーグではあるのだけど、鶏肉を使っているというだけでつくねみがすごい。

薄く平べったくすることでハンバーグを作っていると心を強く武装する

そこは実際のところはどうでも良い話なのかもしれないが、子の晩御飯につくねを出したというのと鶏肉のハンバーグを出したというのでは圧倒的に後者の方がアットホーム感がある。つくねって。まかないか。いやつくねおいしいですけれども。

こうしてつく…いや、鶏肉のハンバーグが完成。

平べったいつくねと言われればまあそう

味見したらとってもヘルシー。ま、及第かなといったところ。この後ほどなく子に与えたところ、「おいしい?」と聞いたら僕の腕をぱしぱしと叩くというリアクションであった。「やるじゃねえか」という雰囲気を感じ取れなくもなかったのでポジティブに受け取っておこうと思いやす。

たしか鶏肉のハンバーグを作るのは人生で初で、それを経験することによって”鶏肉のハンバーグはつくね説”に出会うことができたわけなのだけど、逆説的にお肉を牛豚で作ったとしても、それはハンバーグではなく、豚肉や牛肉のつくねと考えることもできるなという真理に辿り着くことができた。

したがって、町に散在するハンバーグ屋さんはつくね屋さんであるということなるのでつくね業界の方々は大手を振って歩いて良いかと思います。

マーフィーの法則っぽいただの経験則

今年は雨が多い気がする。気がするだけで調べたりしているわけでもないのであくまでも体感なのだけれども。でもたぶん、覚えてないだけで毎年そんなことを言っているのだろうな。

あと、明日は休みをとっていて、桜の名所に花見にでも行こうかと思っていたのにどうも天気が良くないらしい。自分の予定と雨がかぶると「休みの日に限って…!」となるので余計に雨が多いような気分になるのかもしれない。いわゆるマーフィーの法則的なことなんだろうな。

ja.wikipedia.org

中学のころに本か何かが出てマーフィー法則という言葉自体が流行った記憶がある。そのときは前述のように、嫌なことが起こってほしくないときに限って起こってしまう、みたいなものというざっくりとした理解でいたでいたがつまるところ認知バイアスなのだろうなと思ったらウィキペディアにそう書いてあった。お、中学の頃より賢くなっている。

なんでそんなことを言い出したかというと、昨日の出社時、なかなか決まらなかったお昼ご飯をやっと決め、お店についたら休業日と知り愕然としたことによる。そのお店は遠いというほどではないけれど、しょっちゅう通うかというとそれほど近くはない距離感だった。お店に向かう途中で「これでやってなかったらウケるな」と脳内軽口大会が開催されていただけにやっていなかったときの気持ちたるや。

あの、わりづらいと思うんで恥をしのんで説明してしまうんですが、お昼ご飯のためにせっかく足を伸ばしたときに限ってそのお店がやってないっていうところがマーフィーの法則っぽさあるよねという話でございます。まあこれはただの嫌な予感とか言霊とかとも考えられるけれど。久しぶりに行きたいなと思って行ったお店がやってないことがよくあるのでただの経験則とも言える。

ちなみにお店はこの日が休みだっただけでなく、今月3日くらいしか営業しないという張り紙がしてあった。どういう営業スタイルだよ。

仕方がないので全然近くないのだけど、オフィスが引越しする前の近所にあった6割ラーメンに行った。6割ラーメンとは食べると気持ちが6割くらい満足するという極めて失礼な位置付けをされたラーメン屋である。

takian2000.hatenablog.com

そしたら、ですよ。

ぉん…?

チャーシューが!

ハート💖

上からみてもきっちりとハート

迂遠な愛の告白でも受けちゃったかなと店内を見回したが、客は僕ひとり、店員さんとは目があう余地すらなく、注いだ視線を店内設置のテレビへ向けるしかなかった。THE・空虚。

6割ラーメンは爆速で出てくるのでお昼ご飯空振りのロスも埋められ、きちんと時間内にオフィスに戻ることができた。

それにしても6割ラーメン(黒)、モラルに乏しい経営者の工場の近くの川みたいな色のスープだ。前おなじものを食べたときはもっときちんと分離していたんだけどな。でもこんな状態でもきちんと6割満足したのでその実力は確かだ。ホームランバッターであるよりもアベレージヒッターであれということを示しているんでしょうね(たぶん違う)

 

1人飲みに新たな船出

年度が変わって初日。ふだんであれば特にそう意識することもなく連綿と続く日々の1日でしかないが、今年は務める部署のボスがかわったということもあり、意識せざるを得ない年度の始まりとなった。

ボスが変わったといっても僕にはそう影響ないので特に気にしないという不敬さは持ち合わせているが、今日は月曜で在宅勤務の日である。その業務開始の連絡に新ボスもCcにいれないといけないという部分に悩んだ。

新ボスとはまったく面識がない。むしろどんなひとかも知らない。ルール上Ccに入れないといけないけど、知らないひとということを考えるとまったくなんの挨拶もないわけにはいかない。けれども、そこで本格的によろしくお願いしますみたいな挨拶するのもなんだか違うような気がする。ついでっぽさがすごい。同じ島のかんぺいちゃん(声が間寛平に似ている)に相談したら「え、別に挨拶とかいいんじゃないですか」との回答だった。強おじすぎるだろ、かんぺいちゃん。もっとサラリーマンらしくあれ。

けっきょく、「今日は在宅勤務ですまんけど、明日出社するから改めて挨拶するね」的なことを丁寧に伝えことなきを得た。か、どうかはわからない。こういうのってどういうふうに振る舞うのが正解なんだろうか。でもいちおう新ボスからの返事があって、当たり障りはないながらも戸惑いは感じる返信だった。ミスったかな。

年度の初めはそんなことでわりと通常運転気味だが、年度末は少し浮かれていた。なんだろうな、年始よりも年末のほうがそわそわする感じ、ないですか。僕はそういうタイプでこれまでの人生やってきております。

前年度最終日は金曜だったので本来であれば透析日だったのだけど、夜は飲み会なんかあるんじゃないかなとうっすら期待して透析日をずらして身体を空けることまでしていたくらいだ。前までよく飲みに行っていた定年派遣おじさんもふだんとは在宅と出社の日が全然噛み合わなくて数ヶ月会ってなかったけど、久々に出社がかぶるし、これはもう飲み会待ったなしである。

そう思い、勤務中に「きょうどっか飲み行くんすか?」と尋ねたら行くとも行かないともいうふわっとした返事。え〜、そうは言っても業務終わりにお誘いなんかあるのかななって思って定時で仕事を終えて定時ダッシュ待機をしていたところ、いつのまにやらおじさんは消えていた。

え、まじで。ちょっとショックだな…というか飲みに行く気満々だったんだけどどうしよう。最近飲みのお誘いもできてなかったから愛想尽かされちゃったのかな。などということを考えたが不発に終わってしまったものは仕方がない。リカバリーに走らなければとこれからでも誘えそうな飲み仲間に声をかけてみたりした。しかしこんな時に限ってつかまらない。そんなもんすぎる展開である。

家に帰ればいいだけの話ではあるのだけど、この日はあらかじめ飲みに行くことを宣言し、その許可を得ているわけなので、素直に家に帰りたくない自分がいる。シューティングゲームのボムは使い切って補充を受けたいという貧乏根性と同じだ。

こうしてうつろな気持ちのまま自宅近くの駅まで来てしまった。ここで持ち前のマイペースさが顔を出し始めた。誰かと飲みたいという気持ちでここまできたが、だんだん「飲めればいっか」に気持ちがシフトしていく。そうなると気が楽なもので、ふだん気になっていたけど行ったことないお店に1人で行ってみようのフェイズに移行である。1人で知らないお店に入るなんて久しぶりだ〜ともうご機嫌なので我ながらちょろい。

こうして入ったお店で一杯やりはじめた。

いも焼酎ロックとレア鯵フライ

1人で飲むのもよきものだなあとじわじわとテンションをあげることにお酒とおつまみは甚大に寄与してくれたのだが、駅前の一等地のお店だからなのか、他店で同じようなものをオーダーしたときよりも3割くらい値段に気高さを感じる。

よし、今日はもう1人で飲むと決めたし、ここで全弾打ち尽くすのではなく、戦場を変えてみるのもありだなとそこそこのところで店を後にした。

もうしらふじゃないし、一本路地に入ったお店くらい行けちゃうテンションである。そして時間もまだまだ早い。どうするかと考えた末に、家の近所にある誰がどう考えても常連しか行かない個人経営のこぢんまりとした居酒屋を思い出した。行くなら今しかない。

結果、行って大正解であった。それというのも、読み通り常連が集まるお店ではあったものの、お店の方も良い方、常連の方も気の良い方々で、極め付けは乳幼児を連れて行っても良い、というかわりと歓迎ムードであったことだ。お店にバンボが備え付けられているらしい。お店は夫婦で営まれており、お子さんが常駐しているようだったのでたぶんそのお子さんが使っていたものなんだろうな。いずれにせよ大助かりであるのには違いない。お子さんにとってお店が居間みたいになってるのってちょっと羨ましい。人見知りしない子に育ちそうだなあ。

常連さんとの会話もそこそこ弾み、お店の方とも雰囲気よくお話しできたので確実にまた近いうちに飲みに行くに違いない。最近行きつけのお店も閉店してしまったので1人飲み難民になっていたが、新たな港ができそうで嬉しい次第。

おじさんと飲めなかったのは残念だったけど結果オーライだったな。こういうところの縁って大事にしていきたいので素直にありがたがっていこうと思います。

 

 

数年がかりのルンダンサーガ 完結

なんだか久しぶりに晴れた気がする。今日は在宅勤務だったので天気はあまり関係ないといえば関係なかったわけなのだけど、やっぱり晴れているだけで気分が違う。そしてお昼ご飯調達の意気込みも変わってくる。

なんだかお昼ご飯のことにばかり言及しているような気がする。いや、気がするわけではなく事実そうだ。何せ仕事の日のハイライトなもので。むかーしmixiで全然知らないひとの足跡がついていて、見に行ったらお弁当屋さんの店員さんで、その日販売のお弁当のことだけを日記で書き続けているひとがいてなんとも味わい深い気持ちになったものであるが、僕のいまのこの状況、まさにそのお弁当屋さんと一緒なのでは。見るひとの視線を遠くに投げさせるブログとしてぬるま湯をじゃぶじゃぶしてこうかと思います。

いやね、でもそのお弁当屋さんは本当にお弁当の紹介オンリーで、そのひとの感想とかおすすめポイントとかを紹介するわけではなく「今日はちくわの磯辺揚げ弁当が販売されます。380円です。」みたいな内容で1本仕上げてくるわけでして。ある意味で煮詰め切ったストイックさを感じる。それに比べるとこのブログは煮込みが足りないか。おでんをこの状態で売ったらがっかりされるレベルである。

そういいつつもけっきょくお昼ご飯のことしか書けないのだけど。せめて時事的なことを書いておこう。受け取るひとが受け取ればもしかしたら情報っぽくなるかもしれない何かを。そんなわけで松屋の期間限定メニューを食べた話。

ルンダンの文字の小ささ

写真そのままだけど、”マレーシア風牛煮込み ルンダン”である。実はルンダンは初めてではない。けっこう前にテレビ番組、相席食堂で「世界の料理ベスト50」の1位がルンダンだと紹介されていたのだ。このとき初めてルンダンという食べ物を知った。

それからもおりに触れてルンダンのことを気にかけていたが、専門店に行くまでの熱量もなく、ルンダンとの曖昧な距離を保つ日々を過ごしていた。そんなある日。場所はどこだったか忘れてしまったが、スーパーで運命的な出会いを果たした。

スープのくくりとなるわけか…

ルンダンスープに巡り合った。ルンダンを知らなければ名前からどういうものなのか皆目見当もつかない。それ対策なのか、材料のイラスト、はてはどういう雰囲気のスープかの説明書きまである。ここまで書いてあってもおいしいんだろうなと思いつつ買うひとはそう多くないレベルで謎のスープだ。僕みたいな珍しいものに飛びつくタイプは喜んで買ってしまうのだろうけど。ポジション的にずっと前に売られていた変味ペプシ(きゅうりとかあずき)とかと同じポジションの売り物のようにも感じる。こっちはきちんと世界で1位とってますけども。

正直、ルンダンスープについてはあまり味に覚えがない。「おいしいけど…こんなもんか…」というようなことを思った記憶はあるけど、「ま、でもインスタントのスープだしな」という幼少期のキスは初キスにカウントしないみたいな気持ちでルンダンから目を逸らした。

その後、ルンダンとは知らない仲ではないけど2人きりはきついかな、という距離感のまま時はながれた。そしてまたある日。実はカレー屋でおなじみの無印食品のレトルトカレーコーナーでレトルトのルンダンを発見したのだ。

お?君カレーだったん?

”世界のスープ ルンダン”として見かけるよりも、カレーコーナーの珍しいカレーくらいの立ち位置のほうが圧倒的に売れそうだ。そして無印にいく層はこういうの絶対に好きに違いない。例に漏れず僕もなので迷わず購入した。
このときのことはきちんと覚えている。ココナッツクリームとスパイスが効いていてとても好みの味だった。ラクサ(のカップヌードル)と味の方向性が似ているような気がする。ココナッツクリームはマレーシアとかシンガポールあたりの料理でよく登場するけど、台湾でいう八角みたいなものなんだろうか。

好みの味だったし、素直においしいと思ったものの、まだ「おいしいけど…インスタントだしな…」の気持ちは払拭できていなかった。そこにきて今般の松屋のルンダンである。松屋は以前にもジョージアの料理シュクメルリをリリースしたりと何かと多国籍づいている。しかも松屋お得意のカレー方面の食べ物ということで否が応でも期待は高まった。

煮込みとは言ってるけどカレーのビジュアル。まあカレーも煮込みか。

”あの辺の国のお料理”感がすごい。僕はとても好きだった。東京なら街にひとつはありそうな松屋というチェーンでこれを食べられるのってありがたい話だと素直に思えるおいしさだ。でもたぶん、だいぶ控えめにしてはいるのだろうけど、ココナッツ、スパイスの風味がそこらで売っているものに比べると強めなのでひとは選ぶかも。そしてお米よりもナン的なものの方が合いそう。松屋はお米をわしわし食べさせるお店なのでお米に合うようにはしているのだろうけれども。

きちんとおいしいものを食べたと思えたので、こうなってくるともうマレーシア料理屋とかにいかないとこれ以上のルンダンを食べられないと思う。でもたぶん行かない。ということで僕のルンダンサーガはここで幕引きとしよう。

 

モラトリアム人間の危機

モラトリアム人間という言葉がある。

モラトリアム‐にんげん【モラトリアム人間
年齢では大人の仲間入りをするべき時に達していながら、精神的にはまだ自己形成の途上にあり、大人社会に同化できずにいる人間。

要はいい年齢の大人がいつまで経っても社会的な責任を負わずふらふらしているというようなことであると思うが、僕はけっこうこれにあてはまってしまうのではないかと思っている。

もちろん働いてはいるし、家庭のために最善を尽くす所存ではあるが、たぶん一般的な同年代に比べるとどうにも色々足りていないような気がしてならない。不真面目ともまた少し違うかもしれないけれども、少なくとも立派に自分の立場を築き、それを全うしているという自信はない。

この際、宣言してしまおうかなとすら思っている。生涯モラトリアム宣言を。もう四十路だし、ここまできてモラトリアムから抜け出せていないならいっそモラトリアム界の重鎮となってしまおうじゃないか。ゲームのチュートリアルだけめちゃくちゃうまいひとみたいなことで生きていこうじゃないかとすら思うのだ。こういうとこなんでしょうね、抜け出せない原因てのは。足りないのは危機感なのかもしれない。

とはいえ、そんなことを思うほどに自分の人生を振り返り、これからのことを考えたりもする。そうすると「自分ってこんなだったっけ」と思ってしまったりするのだ。20代の頃はほぼ前世なんじゃないかというくらいに環境も言動も異なっていたなと遠い目になり、これでいいんだろうかと思い耽ることもしばしば。ん…?まてよ、こ…これは…!

”中年の危機”というやつなのでは…!

人生折り返しの頃に訪れるという大人の思春期というやつである。思春期が若さを象徴していることに対して中年の危機は思秋期というらしい。色合いが一気に茶色になる。とにかく彩度が低い。大人になりきれてないわりにはきっちり中年らしいイベントが訪れているのだな。最近20代のときのことを鮮明に思い出せなくなってきたりして、「…人生折り返しだな…」と感じてしまっていたし無理もないか。危機感がないながらも何かしらは感じていたらしい。ま、それで及第という考え方もある。だからそういうとこだぞってね。

モラトリアムかつ中年の危機って語感がそうとうまずいんじゃないかなと思うけどここはひとつ”ミッドエイジ・M・クライシス”とか、モラトリアムをミドルネーム風にして埋め込むことでクリスチャンっぽさを出して煙に巻いていこうかなと思う次第です。だからそういう(以下略)

やっぱり足りていないのは危機感。



 

なんで今までバジルクリームに遭遇していなかったのか謎

休み明けの出社であった。最近月曜は在宅勤務としているので休み明けに出社をしている状態というのはレアケースだ。でも以前までは出社して仕事しているのが当たり前というかそうしないと仕事ができなかったわけなので時代は変わったものだと思う。この部分だけは本当にコロナ禍の功績といえるだろう。

上記のように言うと仕事が嫌とか出社が嫌とかそういう雰囲気が出てしまっているかもしれないが、そこまででもなかったりする。仕事、嫌いではないし。外出は気分転換になってよい。何より、常日頃から吹聴しているようにお昼ご飯でQOLブラッシュアップのチャンスが訪れるというのは何にも変え難い喜びである。

この日もお昼ご飯を食べるついでに出社をし、食事のおまけで労働してきた。しかもお昼ご飯はしばらく行っていなかった以前よく通ったパスタ屋と大決定しているという八百長ギリギリの勝ち戦である。

訪れたお昼休み。パスタ屋へ向かう。ガチガチの鉄板で勝利をつかむつもりで訪れたわけだけれど、ここでひとつ勝利に彩りを加えたくなった。いつ食べても最高においしいウニクリームのパスタを食べる気満々で赴いたが、ここはひとつ今までに食べたことのない味のパスタにしようじゃないかと。

しかし口はクリームパスタの口…そこから大きく路線変更はしたくない。逡巡しながらも今日のおすすめメニューを相手がヤンキーなら喧嘩が始まるくらいに食い入るように確認したところ、「きのことえびのバジルクリーム」なるものを確認。これしかない…!勝利の彩への活路を見出した。今日の勝利の色は緑色だ!ジェノベーゼではなくバジルクリームってちょっと珍しい感じするし。

そんなに、というか全然緑ではなかった

勝たないわけがない。これがプロスポーツであればリーグ再編が囁かれ、戦争であれば慈善団体から抗議の嵐が巻き起こるほどに圧勝につぐ圧勝であった。勝負にならないほどうまい。意味わからんけど。

このお店はどのパスタを食べても全部おいしいので知らないテイストを頼むことに少しも不安はなかったが、想像以上の収穫だった。自分史に新たな「うまいもの」が追加された瞬間である。

そういったことなのでこのお店はいつ行っても混んでいる。勤め先は12時より前に昼休憩に入るので席を確保できるが、12時からの休憩だったら絶対に待つことになる。実際この日も外に列ができていた。にも関わらず僕の後ろのお客さんは過疎地の喫茶店の午前中くらいのテンションで食後のトークを楽しんでおりハートどうなってんだろうとパスタをすすりながら思った。

あっという間に食べ終わり名残惜しみながらもお会計。店員さんは気持ち良いちゃきちゃきしたお姉さんなのだけど、会計のときもそのスタイルは崩さない。てきぱきと早口でお会計対応してくれた。いちおう準常連みたいなポジションで、いっつもウニクリームばかり食べているので僕の顔を覚えてくれており、この日もお会計時に何か声をかけえてくれたものの、ちゃきちゃきと早口で話かけられたためきちんと聞き取れず愛想笑いとも言えないぬるい笑みで乗り切った。

飲食店で勤めたことがあるひとならわかると思うのだけど、鉄火場の飲食店は時間の流れが通常時と異なる。全ての事柄を1分、1秒早く行う必要があるので脳がクロックアップするのだ。端的に言うと店員さんと僕で流れる時間の速さが違っていたに違いないという話である。それくらいに店員さんの言っていることを聞き取れなかった。鈍重にもほどがある。

おいしいものを食べられればけっこう機嫌がよいので午後は午前以上に上機嫌で労働し、なんだかよくわからない会議などに参加しながらも少しの残業ののち帰宅した。

パスタブーム到来の予感🍝と、毎回このパスタ屋に行くたびに思うのにそうならない不思議。