普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

春をにおわせておいてきっちり寒い

春分の日。祝日でありながら透析日である。ふだん透析は夕方から行なっているけど、休みの日に夕方から透析というのはスケジュール調整がめんどうなので午前からに変更してもらっていた。

春分の日にふさわしく暖かな日となりそうな予感を察知しマフラーなしで朝家を出る。透析クリニックに到着し、透析を開始。4時間ベッドの上だけれど、家にいたとて用事がなければダラダラと過ごしてしまいがちなので、場所が変わっただけでスマホをいじったりうとうとしたりで家にいるのと大差ない時間を過ごす。

そうこうしているうちに透析は終了。時間的にはちょっと遅いお昼ご飯の時間だ。クリニックは駅の近くにあるのでせっかくなのでお昼ご飯を調達していこう。休みの日に駅前ご飯を食べられることを考えると通常の休みより透析で駅前に来ていることに優位性すら感じられる。そう思えるタイプの人間でよかった。

妻との折衝の結果、台湾屋台風のお店で台湾風からあげ丼的なものをゲット。

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かなり思い切りよく八角の風味があり、日本に迎合しすぎてない味わいに舌鼓を打った。現地の台湾飯食べたことないけど。

こういうおいしいなと思うものを食べると家で作りたくなる。台湾系のものは大体のものが八角の風味というか五香粉の味なので強い心をもって五香粉を使うと異国情緒を漂わせることが可能である。

そういえば五香粉、家にあったなと調味料入れを探り発掘したところ、賞味期限が2023年の9月であった。汎用性の低い調味料の末路とはかくあるもので毎回申し訳ないなと思いつつ、台湾色に染まりきれない食生活を詫びた。五香粉に。

お昼ご飯のあと、散歩にでも行こうかと言う話になりつつ、その前にちょっとアーマードコアやっていいすかと始めたところ、まだ16時前なのにみるみる辺りが暗くなってきた。なにかの物語ならこれから確実に良くないことが起こる前触れくらいの天気の悪さである。

どこかで魔王の後継者が生まれるとか、ママがゲテモノ料理だしてくるとか、そういうことが起こる天気の悪さ。ちなみに、ママのゲテモノ料理というのはドラえもん のび太のパラレル最遊記の冒頭のシーンの描写で、今日くらい天気が荒れたのちのシーンだったのだけど、当時衝撃すぎていまだにあっという間に天気が悪くなるとどこかでママがゲテモノ料理を出してるんじゃないかと想像してしまう。でもゲテモノ料理っていうけど、今の自分の価値観ならちょっと刺激の強いジビエ料理くらいの位置付けで食べちゃうかもしれない。虫食でさえなければ。鹿の脳の刺身とか出してるお店あったし。

けっきょく雨が降って、挙句雷まで鳴り出したので散歩は断念。ついついまとまった時間傭兵時間を過ごしてしまった。

雨を境に同じ日と思えないくらいに荒れた天気に。風は強いし寒いしで、春分の日とかって春を匂わせておいて少しも春らしくない。でも雨前、雨後で春っぽさがあったりなかったりでそう言う意味では春分だったのかな。早く気候に対して無防備になりたい。

その後、ご飯を食べたりお酒を飲んだりしていたらそう早くない時間に飲み仲間から飲みのお誘いがあったものの、次の日が早いことを理由にきちんと断るという好プレイを見せる。少し前までなら迷わず参加して次の日に深い後悔の念に苛まれていたことだろうからほんの少し賢くなったじゃないか、おれよ。これが成長なのか衰えなのか判断し難いところではあるけれども、こういうのはなんでもポジティブにとらえちゃおうかと思いやす。

権力者が食べ物を食べさせてもらってるのもバブみか

昔話などの類で権力者が大きなうちわであおがれながら食べ物を食べさせてもらっているという描写がある。かつては「そういうもの」として特に疑問を抱くことなく素通りしてきたが、子を持った今、思うことがある。

あれ、赤ちゃんがやってもらうやつじゃない?と。

ものを食べさせてもらうことのみならず、権力者が生活のありとあらゆることを従者にまかせっきりで自分でこなすことがないというあれ、どういうことなのかと考えてみた。

生まれてそう経たない子というものは自分で何もできない。だからこそ身の回りの世話を焼く必要があるわけなのだけれど、物語の権力者は大人であることがほとんどだ。自分のことは自分でできる。でもやらない。なぜか。

バブみだ。

世話を焼きたくなってしまうその愛嬌こそが権力者を権力者たらしめるものなのではないだろうか。赤ちゃんといえば何もできないけどかわいくて仕方ない。大変なときだってあるけれど、面倒をみてなんぼ。なんなら面倒をみさせていただいている、それくらいの気持ちで接して然るべきなのである。権力者に対しても同じことが言えるのではないだろうか。

でもたぶん、権力者だって赤ちゃんの頃からずっと継続的にすべての面倒を見てもらっていたわけではないと思う。乳児の頃から幼児になるころ、身の回りのことは自分でしたがる時期だってあったと思うのだ。どこかの年齢で自分でしたがる→なんでもやってもらうにシフトする時期が訪れたと推測できる。

それにしてもまあ、従者は全ての事柄を面倒見なければいけないので必死である。幼き(後の)権力者が自分で何かとやってしまうと職務放棄として解雇、最悪の場合首くらいはねられる可能性だってある。その抜き差しならない状況を乗り越えてものを自分で食べないという自堕落に陥れる努力をしなければならない。

あとは我に帰らせてはいけない。身の回りのこと全てに世話を焼いてもらっている自分が恥ずべき存在であると言うことに気づかれないよう、ヒ素を盛るがごとく緩やかに蝕み続ける必要があるのだ。お友達選びも大事。からかって来る子とかいたら国家権力でさらっちゃう。

と、つらつらと書いてはきたが、世の成人男子の中でもご飯を食べさせてもらうまではないにしても、なんでもお母さんにやってもらっちゃう系のひとっていたりするわけで、そんなひとが社会性という迷彩を駆使して結婚にこぎつけたりする。そうすると奥さんになんでもやってもらっちゃう夫が爆誕するのかなと思ったりする。

「なにもできなかったあの子」じゃなくなったことを認めたくなくていつまでも世話を焼いちゃうのかなあ。愛情って難しい。

以上、子の自立について考えるでした。子よ、健やかに育ってくれい。

特にあげる写真もないので一緒に遊びにいった公園の写真

 

自炊ばっかじゃ疲れるし、よそのものも食べたらいいじゃない

Twitter(X)で「自炊は節約になるのか」論争が巻き起こっていた。論争というよりも「自炊が節約となるという人間はふだん自炊しないひと」という意見が散見され、まあまあ燃えており、リプ欄では自炊は節約になる派の持論が展開されているなという印象であった。

結論から言ってしまえば、個人的に自炊は節約にはなるとは思う。でもそれも複数人分作る前提だったり、同じ材料で何食もやりくりできる、もしくは同じものを食べ続けても気にならないひとに当てはまることだろう。

僕も料理はするのだけど、今の所作るのは妻との2人分だし、同じ材料で色々作り出せるほどレシピを知らないし、手間だってかけていられない。

ではなぜ自炊をするのか。それは食べたいものを食べるためである。

Twitterで例に出されていたのが500円のカツ丼が半額になって250円だったら自炊するより圧倒的に買ったほうがコスパがよいでしょ、というものだった。たまねぎ、たまご、調味料、お肉という原材料費はもちろんのこと、作る手間だってかかる。あと、カツ丼に三つ葉が乗ってるとすごく嬉しいし風味がよくて好きなんだけど、それだけのために三つ葉買うのもなあとなる。でも出来合いならちょこんと三つ葉が乗っている。僕だったら買っちゃうなあと思ってリプ欄を見たら、

・材料費が適正な価格じゃない(材料高くない?)

・カツ丼はいつだって半額じゃないだろう

・カツ丼は半額なのに材料が半額になってないのはフェアじゃない

・手間を時給換算とかしてるけど、そんな小ロットで働ける仕事などない

といった”そういうことを言っているんじゃない”の反論が溢れていた。いやそりゃまあガチガチに検証していくなら色々条件揃えていく必要もあるのかもしれないけれども、感覚の話だし、上記の意見を述べているひとってもしかしたら本当にふだん自炊しないひとなんじゃないかなと思ってしまった。最近よく見る噛みつきたいだけのひとのように思える。噛みつくだけならかみつきばあちゃん消しゴムでもできるのでどうか冷静になってほしい。自炊するひとこそカツ丼250円を買うだろう。すべての手間を考えれば500円でもまだ安い。

近所のスーパーのカツ丼ハーフサイズ。300円くらい。

ただ、あえてカツ丼を自炊でこさえるメリットはある。それは「約束されたおいしさ」を手にいれることができるということだ。

米も炊き立て、揚げたてのカツで作られたカツ丼。そこらへんの出来合いのものとは雲泥の差でおいしいに決まっている。それを自分で作り出すという喜びもある。たぶん1人前250円以下で。

ただ、何度も言うように手間がすごい。米に関してはまとめて炊いておいて冷凍でもしてあればレンジで済むけど、フライを作る手間っていったらあなた、けっこうなものですよ。それだけでたまご1個使うし、たまごと小麦ごとパン粉行ったり来たりするし、きちんと揚げようと思ったら結構油も消費する。そしてその油も一回で捨てちゃうのももったいないかな〜なんてオイルポットにとっておいたりするんだけど、揚げものそんなに頻繁にはやらないのよ。揚げ焼き風でいいかってなるとちょっと出来上がりのイメージからずれてしまうし。

これらが1人前、2人前の調理で発生するのは自炊で金額が安くなっても安くなった費用に見合わない。ちょっとカツ丼食べたいくらいなら買ってきちゃう理由だ。何人分も作るなら圧倒的に自炊すべきだけど。下準備できている状態スタートでいえば揚げものが一番簡単説まである。むしろ揚げもの自体がわりとウケとコスパのバランスが良いとすら言えるかもしれない。

ちなみに、カツ丼に対して鼻息荒く語ってはいるが、僕は家でとんかつを作ったことはあってもカツ丼を作ったことはない。なぜなら揚げたてのかつをだし汁に沈め、あまつさえ煮込むという行為に踏み出せないからだ。自分で揚げたサクサクのかつは揚げたてのサクサクのまま食べたい。子に旅をさせないタイプである。

ところでリプ欄にあった意見として、カツ丼をこの論争で出すのがそもそも間違いという意見もあったが、それは僕もちょっと思った。「自炊のコスパ」ということでいったら野菜炒めとか煮物とかの”THE 家ご飯”に焦点を当てるべきだろう。肉野菜炒め定食800円と言われて若干身構えるのはそれをいくらくらいで作れるかすぐに思い浮かぶからだ。手間もそれほどかからない。

本気で節約していこうと思ったらキャベツ、にんじん、たまねぎ、じゃがいも、だいこんあたりを買っておけば肉を買い足しても1食150円くらいで済むのだろうけど、僕の料理レベルとかけられる手間ではこの材料から僕は炒め物か煮物くらいしかクリエイトできない。なので自炊もするけどやっぱ外のものも食べてしまうなあ。ひとの作ったごはんはおいしい。

最終的に節約かどうかあまり関係なくなってしまった。あれこれ考えると自炊と出来合いの間くらいの存在であるクックドゥってやっぱりすごい。

急な雨と急じゃない雨。天気予報という未来を知る手段。

雨の日が増えてきて、春も近いと感じる。おととい出社の際も雨が降ったけど、この時期の雨の日のわりには凍える寒さではなかったような気がする。

問題だったのは雨予報を知らず傘を持たずに出かけてしまったことだった。雨が増えてきていると思ってはいるのに天気に対して油断しまくっており、天気予報をまるで確認していなかった。通勤中は雨を逃れたものの、職場についてほどなく雨が降り始めた。しかも1日雨予報だそうで。

どうしよう、傘を持っていない。いつもならかばんの中に折りたたみ傘が入っているのだけど、家の玄関の片隅にほっぽりだされた傘の映像が再生された。この間今日と同じように天気に対してたるみ切った態度で臨み、急な雨に降られた際に使い、乾くまでのつもりで置いたままになっていたものである。

お気付きのことかと思うが雨は「急に」降ったわけではなく、僕が天気予報をチェックしていなかっただけだ。でも、天気予報という未来に訪れる情報を先に得ているかどうかの話と考えると、起こる未来を知らなければそれは何が起こっても「急」とも考えられる。天気ではなく、数日後に身内に不幸があることをなんらかの方法で知っていたのだとしたらそれは「急」な出来事ではない。知っていた未来である。ってうるせえわって話ですよね。ちゃんとした大人として天気予報チェックしやす。

屁理屈こねたところで今日は1日中雨。雨が急だったかどうかよりもこの雨をどうにかしなければ。単純に傘を買えばよいだけの話なのだけど、出先でビニール傘を買うと負けた気がする委員会(DVM委)の会長を務める僕の立場上、おいそれと傘を購入するわけにはいかない。

逡巡から渋い顔をしていたのだと思われる。隣の席のかんぺいちゃん(間寛平に声が似ている)から「職場の共用置き傘使ったらいいんじゃないですか?」とアドバイスが。ナイス!かんぺいちゃん、それだよ!

僕以外の大人はこんな日は傘を持ってきていないわけがないので、共用置き傘が使われることはまずないだろう。なので使用しようとしたら誰かが利用中であるという悲劇にも見舞われる心配はない。傘、ゲット。DVM委会長としてのメンツは保たれた。

雨問題をクリア。出社時のメインイベントでもあるお昼ご飯に脳内のリソースをフルでまわせるというものだが、この日のお昼ご飯は既に大決定していた。

バーミヤンの台湾大からあげチャーハン

最近職場の近所にバーミヤンがオープンし、虎視眈々と行く機会をうかがっていたのだ。こないだ行こうとしたらオープン前で空振りしたので待ち侘びていた感すらある。なんなら3日は前からこの日はバーミヤンに行くことしか考えてなかった。頭の中バーミヤンまみれになっているから傘も持ってこずにおめおめ出社するわけなんだけれども。

数年前にどこだかのバーミヤンでチャーハンを食べた際、好みのチャーハンだったのでまた食べたいと思っていたのだ。バーミヤンに行くことのみならず、オーダーはチャーハン一択とバーミヤンに行こうと思い立った3日前から心に決めていた。おかげでこの日のお昼ご飯は非常に満足度の高いものとなった。久々に鮮やかにキメた。バーミヤンといえば飲みに適したファミレスということでお馴染みだが、久々に行ったら以前にもまして飲み中華となっていた。危うく1杯やるとことだった。あぶねえあぶねえ。

さ、今日はもう帰っていいだろくらいの気持ちで残りの時間を過ごし、退勤時間まで止むことがなかった雨をしのぐため、共用傘をお持ち帰りしてしまった。次の雨の日に持って行って帰りは折りたたみ傘で対応すれば効率よきである。完璧だ、思っているが同じ過ちを繰り返し、置き傘が家に増える未来がうすぼんやりと見える。絶対にやらないでしょ、そんなこととお思いだろうが、それをやるのが僕だということを強く主張し次回の雨まで緊張感をもって過ごそうと思います。

 

素朴であり続けなければならないというジレンマもあるのでは

この土日は天気も良く、寒さは感じるものの陽射しさえあれば心をおられることもなかったためちょこちょこと出かけてみた。

土曜日は無印良品へ。無印って出たての頃は”ブランド力に頼らずノンブランドで良いものを売る”ということだったのに今や「無印」というブランド化しているのって世の中こういうところあるよなと思わされるケースの代表みたいなお店である。

素朴なのが良いとされていたのにそのうち素朴じゃなきゃいけないみたいな雰囲気になってそのあたりのジレンマもあったりするのかもしれない。本当はスパンコールのジャケットとか売りたいと内心思っている可能性だってある。無印のスパンコールジャケット、不可能図形みがある。

買い物も済ませた帰り道、駅のホームからやけにくっきり山影が見えたのだけど、それが富士山であるか議論が妻との間で巻き起こった。

影だけだからワンチャンある

都内からあんなに大きく富士山が見えるものだろうかと8:2くらいで他山(他人的な)の空似と結論付けられそうになったが、富士山だったらありがたいのではと富士信仰ばりのハートの強さであの山影は富士であるということにした。こういうのは真実じゃないのよ。

家に帰り、焼き鳥欲が抑えきれないものの、飲みに行くには準備が足りなすぎることからひとっ走り買いに出かけた。飲みに行くことを考えればと想定していた1•5倍くらいの量を買い込む。こういう買い物の仕方で散財していくのかもしれない。しかし買い込んだ焼き鳥はすべておいしかったので後悔はない。

お酒を飲みながらスマホのメモを眺めていると、以前に忘れたくないと思って気になっていたアーティストがメモされたものを発見した。少し前にどうしても思い出せなくて手掛かりもないままその出来事自体忘却の彼方となっていたアーティストのメモもそこにあり、「おー、こんなところに」と思うものの、このメモの存在自体を忘れているとという絶望的な状況に天を仰いだ。手立てがなさすぎる。虚無に飲み込まれそうになるも、ま、そんなもんかと持ち前の適当ぶりをもってこの日はお開き。我ながらちょろい。

そして日曜。この日も天気が良い。子を連れて公園にでも行こうと言うことになったので、気合いが入りすぎてはいないけど、日常使いするには完全に遠いくらいの距離感の公園に行くこととした。

その公園は健康器具とでもいうのか、腹筋補助だとか、雲梯だとかそういったものが設置されていた。その中でぱっと見ようと不明だったものがこれ。

ポールに回転させることができるディスク状のものが取り付けられているもの。まったく使い方がわからなかったが近くに利用方法の説明看板があった。

うーん…

太極拳と同じ動きをすることができるという器具らしい。太極拳のことはまったく知らないけれども、これの補助がなければできないような動きなのであれば太極拳はああ見えて難易度が高いということではある。しかしこれで太極拳の動きを再現できるのだとしたら太極拳の達人からなめんなと怒られちゃったりするのではと心をざわつかせる器具であった。試しに言われた通りぐるぐるしてみたが、練られる何かは感じ取ることができなかったことはご報告しおこうと思います。

けっきょくこの公園は混み合っていたので子を遊ばせるには向いていないということで公園をはしごし、そのはしごした先の公園で子を遊ばせた。公園のはしご、けっこういいなと思ったのでもっと暖かくなったら積極的にはしごしようと思う。

 

 

初めて出会ったその日からずっと思っていたことがある

怒られ覚悟で言うけど、アイアン・メイデンのThe Trooperのリフって果たして本当にかっこいいんだろうか。むしろダs…いや、ダメだ。それを言ったらメタルの歴史を否定することになってしまう。

キャッチーではあるし、中毒性があるのは間違いない。1度聴いたら忘れることはないほどにインパクトはある。そこは認めるところなのだけど、イントロのあのリフを耳にするたび、なんなら脳内で想像するだけで阿波踊りの映像が同時再生されるのだ。阿波踊り全然関係ないけど「えらいやっちゃ えらいやっちゃ」と合いの手込みで。

なので1度思い出すと脳内で繰り返し再生される。昨日もふと思い出し、頭の中でリフが流れ続けたため辛抱たまらずSpotifyでTrooperを再生した。「うむ、なんかちゃきちゃきしとるな」と思いながら曲を聴き終え、ふと思った。

これだけ有名曲だし、いろいろなひとにカヴァーされているんじゃないだろうか。

そう思いSpotifyで「Trooper Cover」で検索したらまんまとプレイリストが見つかった。便利だなー。ネットの海をじゃぶじゃぶ泳がなくても箱詰めされたものを差し出してくれるんだもの。Trooperだけが詰まったプレイリスト。35曲で2時間以上ある。その間ずっとTrooperしか流れないというおでんだったら鍋の中全部ちくわぶみたいな状況が構築されているのだ。

これね、お時間あったりSpotifyユーザーの方には是非聴いてもらいたい。

アイアン・メイデンといえば匂い立つほどに正統派のメタル、いや、ヘヴィメタルバンドである。カヴァーするバンドもメタルバンドばかりと思うのが自然であると思うが、これが違ったのだ。半分以上は同ジャンルからのチョイスであったが、他のジャンルによりカヴァーされているものが聞き応えがあった。

パンクっぽいバンドはまあわかる。弦楽でのカヴァーも想像はできた範囲(とてもよい)。電子音楽系が出てきて「おや?」と思ったところでラスティックまで出てきて膝を打った。ちなみにラスティックとはロカビリーを下地にケルトだのその他民族を混ぜ込んだようなジャンルだ。バンジョーとかが用いられる。

まったく思いもしなかったアレンジすぎて口元がを緩ませ、感心しながら曲を聴き終えた。もう10回くらいTrooperを聴き続けているのに完全に別腹で楽しめたと言える。ただまあ「なんでこのひとたちがアイアン・メイデンのカヴァーを…?」とは思ったけれども。

カヴァー、トリビュートアルバム自体けっこう好きで、思い切ったアレンジしているもののほうが好みだ。このプレイリストみたいに同じ曲をひたすら集めたものは同じ曲なだけにセンスの煌めきを感じ取りやすいかもしれない。

ちなみに、これまでに聴いてきたトリビュート(カヴァー)で一番すごいなと思ったのはJUDY AND MARYトリビュートのミドリによるミュージックファイターだ。”狂っている”としか表現のしようがないほどにぶっ飛んだアレンジで、幼少期にが聞いていたら絶対に泣くほどトラウマ植え付けられていたと思う。原曲好きなひとから怒られたりとかなかったのかな。癖になってその時期けっこうリピートしてたけど。

今回のTrooperカヴァー祭りプレイリストに気をよくしてHelloweenのカヴァープレイリストなんかも聞いているものの、Trooperほどの思い切ったアレンジがないのがちょっと寂しい。元曲が好きなものが多いので聞けると言うのはあるにはあるのだけど。でも、デスメタル系がカヴァーしているものに関してはHelloweenだと歌メロ大事なのにそこをデス声でいっちゃうのって意味あるのかなとは正直思った。楽器隊だけが楽しい。

Spotifyの新しい使い方をひとつ覚えたということでうきうきで書いちゃったけど、対象がめちゃくちゃ絞られる記事になってしまった。あとアイアン・メイデンファンのみなさん石とか投げんといてください。Wasted Yearsとかめちゃかっこいいと思ってます。

ちなみに、アイアン・メイデンとは拷問器具で棺桶のふたにこんなんがついたもの

 

 

 

 

 

トーイソクミョーが当意即妙に変換されるか否か

もうすでに大人も大人、なんなら衰退期に突入してしまっているのではないかと思う昨今であるが、まだまだ知らない言葉はある。若いひとの間で流行っている言葉や、ここ数年で生まれた新語については知らないことも仕方ないと思えるけど、僕が産まれる前から存在した言葉で、日常で出くわしそうだけど、まったく知らない言葉があることにおもしろみを感じる。

今日出会った言葉というのは「当意即妙」。意味としてはその場にうまく適応した即座の機転をきかす様だそうだ。意味としては大変に汎用性があるように思う。似たようなところで臨機応変という言葉があるけど、臨機応変は行動に、当意即妙は心の動きにフォーカスをあてているものであるとの由。ふつうに勉強になっちゃったよ。

僕は今日初めて出会ったけど、当意即妙はおそらく僕が生まれる前から使われる場面では使われ、そのたびに「ん?今なんつった?」と人心を惑わし、帰ってから辞書を引くという言葉であったのだと思う(今ならひとりになったときネット検索)。汎用性のわりには実働に乏しい言葉、それが当意即妙だ。そしてその意味を知って関心した僕のような人間が会話にどうにか当意即妙を織り交ぜようと虎視眈々と待ち構えるというところも過去から脈々と受け継がれているのだろう。

しかし知ってる風を装いたい気持ちが勝ってしまい、誤射をすることもある。小難しいことを言おうとして意味が間違っているなどあわや大恥というところだが、その心配はない。なぜなら世間のほとんどのひとが今日という日を境にこの言葉を知った僕同様に「当意即妙」の意味を知らないからだ。その場では「だよね〜」くらいの顔で聞いていながら「トーイソクミョー…?」と動揺をひた隠しにしている。間違いない。

間違った使い方をしていても指摘されないどころか、その意味を問われることもない。となると、こう思わずにはいられない。

適当な四字熟語使ってても常にドヤ顔していれば博識ぶれるのでは?

適当な、と言っても意味を知らない既存の四字熟語ということではなく、その場で考えて作り出した言葉をさも当たり前のように会話に織り交ぜるのだ。ひとつの事柄から思わぬところに影響を与えることを風が吹けば桶屋が儲かると表現することがあるが、それを勝手に四字熟語ナイズし、「風吹桶儲」(ふうすいとうちょ)などと言い切るのだ。例えば、「さっきの電車遅延はまさに風吹桶儲だったよね」と涼しい顔。しかし相手は「ん?今なんつった?」と思いつつも知らない言葉を半笑いで「わかる〜」と流すしかない。そんな言葉ないのに。むしろ風も吹いてなければ桶屋ももうかってないのに。

これを実践できるひとがいたらそのひとは人心を操る職業に就くべきだ。僕が考える範囲では桶屋がなんたらを四字熟語にするのが精一杯だが、”本物”は例にあげた四字熟語みたいのではなく、存在する漢字を自由に組み合わせてなんとなくそれっぽい意味を持ちそうな言葉を場面に合わせて作り出してしまうのではないだろうか。そしてそれを躊躇なく繰り出す強い心を持ち合わせている。宗教団体の開祖ってそんなひとなのかもしれない。幽遊白書の仙水編に出てきそうだな。

あらゆる場面を漢字四文字で表現

見方によるところではあるだろうけれども、考えようによっては漢字を組み合わせて意味のありそうな言葉を作り出すというところにゲーム性がありそうな気がする。意味から逆引きで漢字を組み合わせていったら漢字だけでプレイするもじぴったんみたいになるんだろうか。

頭の回転と知識量と強い心が求められるので現実にいたら高スペックっぽさはありつつも、僕の目の前にそんなめちゃくちゃなこと喋る人間があらわれたら警心開信ですよ。(警戒して心を開かず信用しない)むずいなー。文字の並びのセンスも問われそう。