普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

箱の中身はなんだろな(生死)

知っているひとは知っている、シュレーディンガーの猫という思考実験がある。僕は名前は知っている、より少し調べたかなという程度で、要はよくわかっていない。

ものすごくざっくりとした受け止め方だと、不透明な箱の中に猫と、毒性のある物質が特定の条件で発生する可能性が50%の装置を一緒に入れたのち、1時間後の箱の中の猫の生死とは。というものであるように思っている。

そのときの箱の中というのは、箱を開けるまで猫が生きている状態と死んでいる状態が重なって存在している。という話なのだけど、これがよくわからない。

それはそうだろ、としか思えないからだ。一切中の様子が見えない箱の中の生物の生死はパーセンテージこそずれがあるものの、生きてるか死んでいるかの二択しかない。

解釈をもっと拡大すれば、僕が見たこともなければ、この先の人生知ることすらあるかどうかもわからない遠くの国のとある一室、若い男性が一人暮らしをしていて、なにかしらリスクが待ち構えている瞬間があるとする。

状況としてはそんなに変わらないわけで、僕からすればその男性は生きているかもしれないし、死んでいるかもしれないわけだ。その男性に会いにいったときに初めてその事実を知ることが出来る。

これもいわゆるシュレーディンガーの猫的な話にあてはまるのだろうか。

逆にもっと話を矮小化させて、うちの冷蔵庫の野菜たちにだって同じことがいえる。料理しようと買ってきたもののなんだか気分がのらず、野菜室に眠っている野菜たち。まだ使えるのか、ダメになってしまっているのか、野菜室を開けるまでは二つの可能性が同時に存在していることになる。

いや、これはずぼらなだけだ。きちんと期限管理をし適宜料理に勤しみたい。全然話が違う。

このシュレーディンガーの猫、僕はまったくわからない世界で、量子学だかなんだかの実験の話らしいのだけど、この屁理屈っぽさは哲学の考え方っぽさも感じる。哲学ってひとつの物事をああでもないこうでもないと言って、最終的にそれは屁理屈じゃない?みたいなことに、なっているようなことが多いように思う。着地点として正解なのかどうかも判然としないこともあるし。

でも僕はそういうところが結構好きなのでたまーに片足だけ突っ込んでみたりする。そして温度感が合わなかったり、深さが分からず踏み込めずにすぐに片足を引き上げる。

そんな程度なので結局今回シュレーディンガーの猫も屁理屈じみたところない?という思いで書き始めたのだけど、結局一番屁理屈こねているのは自分だったりするなとここまで書いて気づいた次第です。昔っからこういうところはある。

しかも、ここまで書いておいてなんだけど、そもそものシュレーディンガー話の受け止め方が的外れでものっすごく頭の悪い感じになってたらどうしよう。

もしそうなっていたのだとしたら、優しく丁寧にご指摘いただければ幸甚でございますので何卒よろしくお願い申し上げます。。