普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

解き方を知っているか知らないかの問題もあると思うんだ

短慮さを試すテストのひとつに、「バットとボール問題」というのがある。

バットとボールを合わせて1万1000円、バットはボールより1万円高い、ではボールの値段は?

というものである。反射的に「え、ボール?1,000円でしょ?」となってしまわないだろうか。僕はなった。しかし実際のところの答えは500円である。

最初、答えを見てもまったくピンとこなかったが、冷静に考えればボールが1,000円だとそれより1万円高いバットは11,000円となり、ボールと合わせたら12,000円となってしまう。ということなので500円のボールとそれより1万円高いバット、10,500円合わせて11,000円のお会計でございますぅ。ということだ。

はー、なるほど。短慮のお手本みたいな僕がボールは1,000円と脊髄反射で答えてしまうのは道理であるかなとは思うのだけど、ハーバード大学マサチューセッツ工科大学プリンストン大学という世界の名だたる名門大学に在籍するお歴々も50%ほどが同じように1,000円と答えてしまったという。

そこで思った。これは「知っているか知らないかの問題」なのではと。答えを知った上で考え直せばその答えは「まあそりゃそうよね」になるし、今後同じような問題、状況に出くわしたときに対処ができるようになるだろう。

そういう側面から、初見殺しな問題というか、ある種のひっかけ感はある問題だと思うのだ。だからこそテストに使われたりするのだろうけど。そしてこの答えを最初からきちんと導き出せるひとというのは物事に対して浅薄な判断を下さないひとなのだろうと思う。法務部とかで働いた方が良いタイプのひとだ。

しかし一方でその考え方ができるひとが必ずしも善人であるとは限らず、こういった言葉のロジックを利用して違法ではないけど適法かと言われれば眉をひそめるシステムを生み出すひとがいるのだろうと思ったりする。

そもそも数学って解き方を知っているか知らないかで出来る出来ないがぱっくり別れる。そこに想像力が介入する余地が一切ない。そういうところが苦手だったんだよなあ。でも逆に、「真実はいつもひとつ」みたいな、必ずたどり着く答えがあるというところが好きというひともいるだろう。要は好みと向き不向きの問題ですよね。

そこ言うと僕はふんわりした答えでもギリセーフになる場合もあるという国語が好きだったし、他の科目よりは少しだけ得意だった。想像に頼りすぎて謎漢字を生み出したりしていたけれども。

そのあたりを考えると限られた情報から数字を導き出すということなので体裁としては数学ではあるが、バットとボール問題に関してはそれだけではない生きるこすっからさみたいなものを試されるものがあるかもしれない。数学の文章題って考えるひとのセンスどうなってんだというものがけっこうあるからそのひとつといえば当てはめられなくもないかもしれない。

それにしてもこのボールの値段を教えてもらえないシチュエーションってどんなシチュエーションなんでしょうね。問題と見せかけてここから始まる寸借詐欺の序章かもしれない。