普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

コンテンツに対してスっと引いちゃう瞬間ってある

象の背中という作品がある。僕はアニメしか見たことがないが、ざっくりいうと妻子ある働き盛りの男性が自分の死期を知ることになり、残りの人生(アニメだと象だから象生)を子や妻のために生き、死を迎えてからも空の上から妻子を想う、という内容である。

手持ちの像の写真を探したら清々しいくらいに無関係そうな像が出てきた

これを見た当時僕は完全夜型生活で、このアニメは夜から朝になる狭間の時間にテレビで流れていた。ほぼ毎日。その日の放送プログラム終わるタイミングの最後の最後に流れていて、それもあって独特なエモみのある時間帯に目にしていたわけである。

まあ感動するわけですよ、これが。内容もベタっちゃあベタではあるのだろうけど、ベタだけに琴線に触れるものはある。ほぼ毎日見ているのに泣いちゃいそうになって、泣いちゃうから見ないでおこうかな、なんて思ったりもした。家族愛とかその手のもので涙しちゃうなんて僕もまだひとの血が通ったところあるなあなんて思ったものである。

が、何かのタイミングで作者が秋元康であることを知ることとなる。

するとどうだろう。もう全然泣けないの。一粒たりとも涙が出ない。水源があったことなど嘘のように自分でも驚くほどに落涙せなんだ。

秋元康のことを嫌ってなどいないし、むしろすごいひとだよなとすら思っているが、作者が秋元康であることを知った途端になんだかとても白けた感情が押し寄せてきてしまったのだ。”仕掛けられた”とまで思った。

この感情は一体どの種類のものなんだろうか。秋元康のことを全然知らないけど、絶対にそんな家族愛のひとではないだろうという印象を持っているので、このお話自体がとても薄いものに感じてしまったのかもしれない。仕組まれた感動とでもいうのか、「ここが感動ポイント」という作られたところでまんまと泣きそうになってしまっていたのではという思いが去来したのだ。

全然ひとの血が通ってなかった。秋元康への偏見で素直に感動するという気持ちをいとも簡単に覆してしまうほどには心が澱んでいた証左を示した格好である。いやあ、心をもっと漉していかにゃあなりませんな。

この手のことってわりとあるもので、数年前に流行った「100日後に死ぬワニ」もツイッターでリアルタイムで見ているときは楽しみにして見ていたのだけど、完結後に商業展開されて、電通が絡んでいるという話を聞いたときにはスっと心を閉ざしてしまった。

象の背中にしろ、100ワニにしろ、作品としてはきちんとしたクオリティのものが作られているのでその作者や展開の仕方は評価されて然るべきであるのだ。しかし、世間の印象というか、風評というか、特定の人物、集団が絡んでいると知った途端にその裏の事情を想像してしまう。

そういうのって良くないなと自分でも思う。作品は作品として評価をするべきなのだ。象の背中にはタイ人がまたがり、100日後に死んだと思ったワニは商業展開で儲けた金で蘇生する。そのくらい関係ないことを想像して喜んでたぶらかされようじゃないか。ちょっと何言ってるかわからないでしょうけど僕も全然意味わかってないです。

まあ、素直に「かーっ!やられたね!」って膝を打って素直にコンテンツを楽しめる人間にはなっていきたいなというお話でした。