行事食を食べるシリーズ3月編第2段、お彼岸である。お題はぼた餅。
ひなまつりと比べるとどうしてもパンチに欠ける部分はあるものの、行事としては仏教由来のものであるため勝手にありがたいものを食べたという気持ちになれるというものだ。
そもそもお彼岸というものをよくわかっていなかったのだけど、春分、秋分で昼と夜の長さが同じ、すなわち太陽が真東から昇り、真西に沈む期間を彼岸と呼ぶとのことで、真西に沈み行く太陽を礼拝することが起源とのこと。と、ウィキペディアに書いてあった。
そこには昼夜、東西が平行になるこの期間はあの世への門が開く期間とも書いてあった。
そうだったのか。この期間、亡くなった父とコンタクトをとるチャンスだったということか。
今父と話すことができたら何を話すだろうか。身内なのに人見知りしちゃってうまく話せないかもしれないな。なにせ30年ぶりだし。でも考えてみれば父の亡くなった年齢は今の僕とちょうど同じなので同い年での会話として同年代同士のあるある話で盛り上がるというのはワンチャンあり得る。
それにしてもあの世への門が開くとか聞くと来来キョンシーズを思い出してしまう。ザ・昭和世代。
そんなお彼岸。行事食は先に述べた通りぼた餅である。漢字で牡丹餅。秋のお彼岸のおはぎと同じ食べ物で、牡丹の花の季節だから春分にはぼた餅、秋であれば萩の季節だからおはぎなんだよね、というくらいの認識でいたが、やっぱり区別するのに諸説あるらしい。
牡丹の花に見立てたものをぼた餅とした、という説があるのどけど
牡丹の花か…?これ…と、なんでも言えばいいってもんじゃないんじゃないかなと思ってしまう説である。
だって牡丹の花ってこれですよ
これで似せたと言えるのならば、キリストの絵を素人が修復してえらいことになってたあれくらいなら充分及第である。そのくらいには別物だ。円形くらいしか共通点がない。これも風情と言われれたらそこはもう黙るしかないのだけど。野暮なこと言っちゃダメよってなもので。
ぼた餅とおはぎの区別には他にも諸説あるらしく、そのなかで気になったものに以下がある。
・ぼた餅はぼたぼたした感じがするからぼた餅
ぼたぼたって。いやまあオノマトペとしてなんとなくわからんでもないのだけど、じゃあおはぎはどうなんだいと。はぎはぎするからおはぎになるのか。はぎはぎとは。
・二口程度で食べられるものをおはぎ、それ以上に大きいものはぼた餅
作るひとのさじ加減でしかない。この説でいうとあるひとの世界線ではおはぎというものは存在しない可能性すらある。こういうぼんやりした説は好物ではあるのだけれども。
ぼた餅といえばことわざで有名なのが「棚からぼた餅」である。思いがけない幸運が舞い込むことをいうわけなのだけれども、「ぼた餅は棚から落ちてこず」という真逆のことわざもあるらしい。棚ぼたにそんなアンサーソングみたいなものがあったとは。「関白宣言」に対する「良妻宣言」のようなものか。どことなく黙っていられなかった感がうかがえて味わい深い。
他にもことわざで「ぼた餅は米 辛抱は金」というものがあるらしく、辛抱がなによりも大切であるという意味らしい。なぜぼた餅が引き合いに出されているのか謎だ。語呂だろうか。だとしたら「ママでも金 谷でも金」と同じようなものなのかなということで腑に落としとこうかと思う。
起源や語源、そしてことわざなどにも諸説が多くあるぼた餅は、それだけひとびとの生活と近いものだったということなのだろう。そして好き嫌いも分かれる食べ物だろうとも思う。
アンチがいる=有名である、というのが大前提であるので、ぼた餅はたぶん人気者枠ということになるのでこれからは羨望の気持ちをもってぼた餅に接していこうかと思います。