少し前にポテトサラダを買おうとした子連れの女性に通りすがりの男性が「主婦なんだからポテトサラダくらい作れ」と言い放ったというのが話題となっていた。
火種満載のエピソードであり、当然のように烈火のごとく燃えた。それはそうだ。
その男性はポテトサラダを作ったことがないのだろうというのがまず大半のひとから出る意見。僕もそうだろうなと思う。あれ意外と工数多いですからな。作ったことあるひとならちょっと食べたいだけなら買うほうが時間もコズパも抜群に優っていることは知っている。
とまあそういう部分もあるけれど、僕からいわせてみればポテトサラダくらいの「くらい」の部分、聞き捨てならない。くらいってなんじゃい。お前はポテトサラダの何がわかっているんだよ!ポテトサラダを軽視しているのみならず、それは芋全般を尊重していないということだと思うのだ。芋を舐めないでいただきたい。
たしかにポテトサラダは芋料理のヒエラルキーの中ではあまりよいポジションであるとはいえないとは思う。
しかしだ、ひとにおもねっていない朴訥としたあのたたずまい、最高ではないか。腕を後ろ手に組んでえへへとかはにかんだ笑いを見せてきそうだ。そのくせ作るのはわりと面倒くさいうえにレシピは無限にあるので愛情注がれ放題。これはほかの芋料理に比べてかなり優遇されているのではないかと思い始めてすらいる。
フライドポテトなんて切り方の種類こそ数種類あるけれど、基本全裸で脂に放り投げられておしまいですからな。DVパートナーにハマりそうなタイプだ。そんな危うく軽率なところ、僕は好きですけどね。
ただまあそれなりの量作るってなると手間の割に日もちする常備菜として活躍するので酒飲みさんなんかはやってるひとわりといるのかもしれない。
で、今回の騒動の時にポテトサラダの作り方がどれほど面倒なのか、ということを熱弁してらっしゃる方々がいて、熱々じゃがいもの皮を剥いて…というくだりが散見されたのだけど、僕は手の皮が軟弱すぎて熱々のじゃがいもの皮むきをするたびにその熱さに打ちひしがれ悲しみにくれていたのでやり方を変えることにした。
あらかじめ皮は剥いておいて、さらに火の通りもいいだろうとほどよい大きさに切り分けてそれを茹でるというスタイルに変えたのだ。
これってやっぱ水っぽくなってしまうとかで推奨されないやりかたなんだろうか。
でも熱々っていちいちひるまなくていいし、ほどよく水分が切れたらそのままマッシュしていけばいいし結構楽なんだよな。
こんな具合でそれぞれのポテトサラダがあるのだろう。それは惣菜だったり飲み屋のポテトサラダも同様。ある意味一期一会であると言ってもよい。出会ったポテトサラダは積極的に摂取していけばよいじゃないというところである。
件のポテサラおじさんはもっとポテサラとの出会い、一期一会を大切にしていくべきなのだ。そうすればそのスーパーでしか出会えないポテサラを買うことの正当性を理解できるようになるはずだ。
ちなみに僕は自分で作ったポテサラが惣菜のものより好きだったりします。
言ってること台無し☆