普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

サタニカ

折に触れて今日がクリスマスだということを思い出す。元々そんなにクリスマスを特別な日だと思っているタイプではないのだけど、ここ数年特別ではないどころかそうであることすら忘れがちだ。

とはいってもやっぱり20代のころはそれなりにクリスマスというものを意識していたことはあるし、彼女のいないクリスマスは寂しいと嘆いたこともある。

そうはいいつつも、結局飲みの口実くらいにしか考えてなかったのかもしれない。実際にそうしていたし。

いわゆるテンプレ的にそう言ってみていただけで、カップルでクリスマスを過ごしているひとたちのことをどうとも思っていなかったし、わりとそちら側に分類されるのに抵抗を感じてすらいたと思う。

子供のころはクリスマスをかなり楽しみにしていたタイプだったような気がするのだけど、何が僕をそのようにしたのだろうか。

 

メタルではないのか。

 

いや、ちょっとはしょりすぎた。

もう少し細かく言えばメタルを好きであるという部分がそうさせたのではないかと。

さらに詳しく言えば、メタルを好きであるということは世間的に見ればマイノリティだ。最初は単純にかっこいいから好きなどの理由でのめり込んでいったとしても、だんだんと自分がマイノリティな立場でいることに気付く。そうなるとマイノリティでいることに酔うようになってくると思うのだ。そうした思考の傾向からクリスマスの世間のテンプレを見ると、なーにがカップルで過ごすだ!クリスマスだろうがなんだろうがいつも通りANGRA聴くんじゃいぃ!となるわけだ。

要はただ単に逆張りしたいだけの思春期真っ只中の思考という今考えるとなかなかにしてなかなかな思想のできあがりと。

そんなことを何年も続けていくうちに逆張りとかそういうのではなく心にテンプレかっこわるい、反マジョリティみたいなとこだけが残って20代の僕が生み出されたのではと思い返してみる。

と、まあここまで書いてみて思うのはメタル悪くないよね?ということだ。

悪いのは思春期の僕だ。すまないメタル。

人生の伴侶であったというメタルになにもかも押し付けるところだった。

メタルとはこれからもよい距離感で良いお付き合いをしていきたい所存です。

 

そんなことをつらつらと書き綴っているクリスマス当日。今日は透析の日だ。

本当の本当にクリスマスをまったく意識しないで過ごしてきたのに、透析クリニックの今日の僕の担当があんまり好きではない看護師さんだったのだ。

なんだかすごく微妙な気持ちになった。このひととクリスマスの夜を過ごすのかと。

なんなんだ、この感情は。まだ僕の中にクリスマスに何かを期待している部分があったというのか。

そうだとしたらちょっと新しい発見だ。

結局、どう過ごすかというよりも誰と過ごすかというのは大事になってくる部分なのかもしれない。