普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

バスタオル替え時物語

バスタオルって気付くとかなりの長期間使い続けてしまうものではないだろうか。使い続けるどころか使い倒している、拭きに拭きまくっている歴戦の猛者揃いになりがちだと思うのだ。

我が家も少し前までそのような状況だった。たぶん一番古いものは中学生のころからのものだったので20年以上ということになる。長きにわたって僕の身体に付着した水分を拭い続けていたわけである。もう相棒といってもよいほどの付き合いであった。捨てたけど。

けれど、そのくらい使っていたわりにはそこまでボロボロになっていない、というかそこそこ新しめのものと大差ないくらいの状態だったのでタオルはアンチエイジングに余念がない。

宇宙では時の進みが遅くなるという。いわゆるウラシマ効果というものだ。タオルにもそれが起こっているのではないのか。タオルが宇宙をまとっているのだ。

適当にいろいろまくしたててみたらものすごく電波っぽい話になってしまった。しかしタオルの丈夫さを礼賛するには宇宙くらいだしてもよいだろう。たぶんタオル座とかある。

 

それにしても、冒頭で述べたようにタオルは気付けば長期間使用している。言ってしまえば替え時、捨て時がイマイチわからないのだ。使え続けてしまうので入れ替えに踏み切るのに確固たる理由を見出せない。

しかし、先日我が家に革命が起こった。妻がタオルの刷新をかなり扇情的に訴えてきたのだ。いままで向き合わなかったタオル問題、ついに向き合う時がきた。このチャンスを逃したら次はもう数年後となるだろう。

僕はタオルの入れ替えを決心した。

そこからはもうサクサクとニューカマーが選ばれ、ネット注文、到着と同時に古参タオルたち全てはばっさりと捨てられた。すごいスピード感で捨てられた。

 

かのように思われたタオルジェノサイドだったが、生き残りが存在したのだ。

疎開していたタオルがいたのである。

透析時、衛生面からベッドにバスタオル、枕にフェイスタオルを敷くルールとなっている。透析クリニックという疎開先で過ごしていたバスタオルについては災禍を逃れたというわけだ。

しかしもう身体を拭くという役割はあたえられることはない。"透析のベッドに敷くもの"としての余生を過ごすしかないのだ。タオルというアイデンティティを奪われ、敷物として過ごしていくのはならばいっそ仲間たちと散ればよかったと思うこともあるだろう。しかし、まだチャンスはある。

僕が持って帰ってタオルとして使えばよいのだ。そう、当たり前の結論である。

ただ、その日は訪れない。なぜか?

新しいタオル、とっても使い心地がよいからです。吸水性、速乾性が違う。簡単に過去の相棒を裏切ることができるクオリティだ。スペックの差というのは残酷なんですな。

 

今も透析中で僕の尻の下には逃げ落ちたタオルがいる。いや、タオルだったものだ。いつか水分にざんぶりと浸してタオルのアイデンティティを感じさせてあげようかと思う。