普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

その魂は燃えているのか

自分の尺度だけでものを語るというのは良かったり悪かったりと場面ごとに様々ではあると思うのだけど、世の中の炎上案件などはその悪い部分の度が過ぎてしまっている状態なのではないかと考える。

今の世の中、情報の取捨がうまくできるかどうかというのがキモなのではないだろうか。

そして、考え方が違うからと言っていちいち目くじらたてないでスルーしてしまえばよいのだ。実生活に実害が出てくるわけでもあるまいし。いやまあ出てくる話もあったりするか。

少なくともSNSでカーッとなってることはわりとスルーしてしまってよいようなものが多そうだ。というか、僕も何かしらの主張を見てそれは違うなあと思うことはあるけれど、わざわざそのひとに噛みつきに行こうとは思わないし、考えを自分と同じにしてもらおうとも思わない。

逆にそうなっているひとたちというのはどういう理念をもってそうしているのかというのは興味がある。単なる僕の野次馬根性だけど。

仮に熱くなっているひとたちが正義という気持ちをもって発言をしているとしたら、その正義はすぐに悪にひっくり返るということだと思う。

正義だって言ってしまえば偏った考えには違いない。それが世間の常識、多数派にどれほど沿っているかとか、立場とかそんなもので表裏はすぐにひっくり返るわけだ。

ふわふわと糸の切れた凧のような僕にはそういった考え方はどうしても出来ないのでなかなか理解は出来ないけれど、思い込むことで行動力を起こせるというのは正直少し羨ましい。

実際のところ、起業などもその手の話ではあるのよな。これが誰かのためには必要となるはず!と信じて疑わないからこそひとに勧められたりもするものだろうし。

僕はそのあたりちょっと弱いというか、自分がいいと思ってるからと言って相手もよいと思うとは限らないじゃない、が先に出てきてしまう。押しが弱いとでもいうのか。

昔から居酒屋でバイトしてたときもお客さんからオススメを聞かれて答えられなかったもんな。だって、食べたことないんだもの。勧めようがない。試食会でもやっておくれよという感じだ。

とはいえ何も答えないわけにもいかないから、これなんか美味しそうですよねーとかでお茶を濁すわけだ。完全に他人事な答え方だ。向いてないなーと思ったのでそのときから飲食店のホールはなっていない。

 

最初と趣旨がずれてきてしまったけど、情報の取捨がうまくできれば炎上を回避も出来るし火をくべる人間にもならなくてすむということが言いたかったのだ。

文句があるなら直接言えには大いに賛成。でも僕はそれをやられたら心をえぐられるんだろうな。だからあんまり大きなこと言わないでネットの海のはじっこでかぷかぷか浮いていようと思う。