前回書いたように、人工透析をしている。
その透析も、もとをたどれば腎不全。さらにたどるとIGA腎症ということで。
発症は7歳の頃。ある日コーラのように黒ずんだ尿が出て、あわてふためき母を呼びにいったのだった。
自分的にも驚きはしたけど、母のほうが気持ちの振り幅は大きかっただろうなあ。その時点では確定的ではないにしても、自分の子どもの身体にあきらかな異常が起こっているわけだし。
結局、受診の後入院が決定し、腎生検を経て病名確定に至る。
そのときは4ヶ月くらい入院してたかな。
7歳児の4ヶ月といったら途方もない時間だ。
食事療法主体の治療ということで、無塩食かつたんぱく制限というストイックを煮詰めたような食事で入院生活を過ごした。
キャベツを油で炒めたもの(当然無塩、当時は適温での配膳もない)という地獄のようなメニューがサーブされつつ、魚はでるけど肉はでないという、今考えるとよくわからない献立で、肉がでたのは退院直前に親指程度の大きさの鳥のささみがでたのみ。
それでも4ヶ月肉を絶たれた7歳児には嬉しすぎて、いつまでも咀嚼しつづけ、あげく、口にもうなんだかわからなくなった咀嚼物を含んだまま嬉々として母に電話をしたのだった。
そんな幼少期を経て、高校生の頃に腎移植をし、そのときも4ヶ月くらい入院。
その他にも1ヶ月以上の入院というのはちょこちょこしていて、入院中の過ごし方も板につき、入院ライフを満喫できる程には入院慣れしていった。
そういう部分も含めてなのかもしれないけれど、妙に不健康慣れしているというか、そういう部分があるように思う。
考えてもみれば物心ついてまだそんなにたたない頃から不健康であることがデフォルトという人生を歩んだのでそれもそうなるかなと。
言ってみたらどんな状態が「元気」なのか、この年齢になってもよくわかってないところがある。
それも悪いことばかりということもなく、不健康デフォルト、生きているなら丸儲けとすら思えるので、腎臓以外の疾患に罹ったとしても、あまりダメージを負わないで済んでいる。
いっかい脳が浮腫んだとかで(pressという病名だったと思う)視力がほぼ皆無となったことがあったのだけど、そのときもわりと楽天的な気持ちでいられた。
可逆性とは言われてたし、もしかしたらあまりに急なことだったから現実として受け入れられてなかっただけかもしれないけども。
さらに言えば人工透析が必要な身体になったと言われたときも、おそらくあっけらかんとしていたタイプであったと思われる。
これは前向きとかではなく鈍感というか、不健康に対して不感症なのではと今この記事を綴りながら思えてきた。
それはそれで自分の人生としてはネガティブなことではないだろうから結構なことだ。
と、いってもやっぱり完全体には憧れるので偉い人とか才能溢れる人に頑張ってもらいたいのである。ってこれ結局前回と一緒だ。
自分も努力をすると付け加えておきます。何をかはわからない。
次回は病気があったからこその出会いなどというものを書いてみよう。