いま、シェアハウスだのなんだのといった形で他人との共同生活もひとつのライフスタイルとしてあるけども、思えば自分にも似たような経験がある。
それは中学生のころ。
病気の塩梅がどうにも悪く、高血圧が続き、頭痛がやまない時期が続いた。病院にも定期的に通い、院長に診てもらっていたのだけど、一向に症状が改善されない。一応総合病院で大きな病院だったので、信頼をおいていたのだけど、だんだんと母子ともにこの病院まずいんじゃないか?といった疑問がうまれ、転院を決意。転院後の病院であっさりと血圧は下がり、なんだっだ、あの病院。と、思っていたそんな矢先、母がどこからかこんな情報を仕入れてきた。
親元から離れ、自立心を育むことで心身ともに健康に近づけることができる病院がある。
これだけだとちょっと座禅で空中浮遊したり、面識のない人と結婚したりする手合いなんじゃないかと思ってしまうけど、実際は真っ当な病院で、親元にいるとどうしても互いに甘えが出てしまって、病気の管理もおろそかになってしまうので、入院しつつ、そこから学校も通って自分の身体に合った生活をしていきましょう、といった施設だった。
親元を離れて入院というのは普通の入院でも一緒なのだけど、基本的にその病院は一般的な面会は禁止なので、平時に親と会うことはない。
母はそんな病院に自分を入院させようと考えていたのだった。
二つ返事で応諾したと記憶している。
その理由というのは、当時通っていた中学では男子は丸刈りという自分にとっては心の底から憎み尽くした校則があり、入院先で通う学校は髪型については特に縛りはなかったからであった。
たしかに髪は伸ばせた。
伸ばせたけれども浅はかだった。
当時中1であったにも関わらず、母にべったりだった自分にとっては親元を離れて暮らすということの不安さ、寂しさを想像する力が欠けていたのだと思う。
基本的には親に会えないということであっても、症状が落ち着いてさえいれば週末は外泊もしてもよいと聞いていたし、少しの我慢だと考えていた。
しかし、実際入院するときになって話を聞いたら最初の1ヶ月は親と完全に面会禁止、電話も禁止、という甘えん坊としては絶海の孤島に島流し並の条件が待ち構えていたのだ。
手続きも済んでいるので泣く泣く受け入れるしかなく、本当に泣きそうになりながらひとつきは会えなくなる母を見送った。
入院をしながら通学するということもあり、その病棟には小1から中3まで、男女入院していた。その大半はぜんそく患者だった。
そんなぜんそく患者の歳の近い子たちと8人部屋の同室となり、入院初夜を過ごすうち、ぎこちないながらも少しずつうちとけていけそうな空気が生まれたので「案外1ヶ月はすぐすぎていくかも」と感じ、眠りにつこうとしたそのとき。
同室でインフルエンザを発症した子がでた。
「君を隔離しなきゃいけないから移動の準備をして。」
と、看護師さんからの通達があったのである。
腎臓病患者は風邪なとひくと病状悪化したりするのでその判断は病院側としてはまっことただしいのだけど、せっかく仲良くなりかけていた子たちと離れてしまうのか、と移動の準備をした。
移動した先は幼児と泊まり込みのその母親、そして自分という二人部屋だった。入院したばかりの自分の症状では通学の許可はまだ出ておらず、病棟内はインフルが蔓延しているので部屋からはなるべく出るな、というお達し。甘えは禁止なので、最初のひとつきは漫画は五冊までしか持ち込めず、当然ゲームなどの持ち込みも禁止。隣にはコミュニケーションをとるには幼すぎる幼児、やはりコミュニケーションをとるには大人すぎるその母親。
必然的に会話というものをしなくなる。孤独と親元を離れた寂しさでずっと泣いていた。しかもそれがなかなかの期間、たぶん1ヶ月弱ほどは続いたと思う。最終的に感情が平たくなって、笑ったりとかうまくできなくなってたことを考えるとちょっと鬱っぽい状態になっていたんじゃいだろうか。
見かねた病院側が1ヶ月経っていないながらも特例として母を呼んでくれたのだけど、母と再会したときも最初無表情でそのあとぼろぼろ泣き出したので母もさぞかし心配したであろうなと思う。
そんな入院初期のアクシデントを乗り越え、インフルの猛威の去った大部屋に返り咲くのだけど、なんだか長くなってきたので続きは次回。
共同生活のくだり全然かけなかったな。