普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

キレたナイフのひと

こどもの頃、横浜に住んでいた。

父は仕事の都合で転勤がしばしばあり、その社宅が横浜だったのだ。

新築の社宅で、なかなかよい環境であったと思う。

なにせその前は島根の山のなか、ザ・社宅というような古風な建物だったし、なにより場所がすごかった。

今になってGoogleなどで航空写真を見てみると、山と山の裾野の限界集落といった様相なのだ。

そんな場所からの横浜の新興住宅地への転勤。父も嬉しかったであろう。

 

当時、今から30年ほど前になるが、社宅の周りにはまだ空き地がたくさんあった。

中には小学生の目には果てしない程の広さをもつ空き地もあり、立ち入り禁止の柵をくぐり抜けては遊びに行っていた。

 

広大な空き地なだけあって、しょっちゅう行っていたとしても、そのときそのときで新たな発見があったりする。

なにもない原っぱだと思っていったら空き地の真ん中あたりに何かしらの木がまとまって生えていたりという発見もあった。

おそらく果樹園というか、畑というかそういったものの跡地だったのだろうけど、入れ子になっていてわからなかったので発見したときはワクワクしたものだった。

 

とはいえ、よくわからない空き地のよくわからない木々。

警戒心をもたないこともない。

発見だけして、しばらくはそのエリアの探索はしていなかったのだけど、ふと思い立って木々エリアを探索したことがあった。

 

すると、何の脈絡もなく包丁が落ちていた。

今考えるとなんだか怖い。むき出しの刃物が脈絡なく落ちているのだから。

普通なら見なかったことにしてスルーしてもよさそうなものだけど、小学生は賢さが低い。

いや、僕が賢さが低かっただけだ。

 

当然のように拾い、振り回してんだ。

刃物があったことそのものよりもお前のその行動が怖いわ。

一通り振り回して遊んだあと、今度は投げて遊んだ。本当に危ない。物理的にも危ないけど、刃物を投げるような精神構造が危ない。

 

賢さが低めの僕はそれらの遊びにも飽きて、刃物=研ぐというどこから入手したのかわからない知識をもとに、それを遂行することにした。

刃物研ぎにはどうやら平べったい石が必要だという情報は自分のなかにはあったので、木々を囲っていた石の柵をなぎ倒し、横に寝かせ、それを使って包丁を研ぐことにした。

 

当然研げるわけもない。

むしろ、刃はこぼれていく一方であった。

だけど、そもそもどういう原理で刃をといで、どういう状態が刃物を研いだときのゴールなのかもわかっていなかったので、その包丁を石にこすりつけるという行為そのものに愉悦を感じていたのだと思う。

 

そして賢さの低い僕でもこれは刃の状況が悪化しているのでは…?と気づき、最後に包丁を遠投し、その場を後にした。

ほんとやめてほしい、当時の自分。

 

そのような思い出…というか懸案事項のあった横浜。

今はどうなっているのだろうと、大人になってから訪ねたことがある。

 

社宅と駅はバスでしか行くことのできないと思っていたが、その距離も歩ける距離であったという発見があったり、いわゆる新興住宅地として存在していた当時と違い、普通の住宅していたについていた。

 

そして件の空き地。

果てしない面積の空き地には全て家がたっていた。これには心底驚いた。

それとともに少し寂しさも感じた。

あのように狂った行為を空き地で繰り広げていたお前に悲しむ資格なぞあるのかと言われれば反論の余地はないのだけど、感傷的な気持ちくらいはもつ。

 

それにしてもあの包丁、あのあとどうなっていったのだろう。

僕にぼろぼろにされ、包丁としては再起不能な状態まで追い込まれたわけだ。

 

せめて心のなかであの包丁を弔おうと思う。