普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

2代目寅さん討論会

男はつらいよシリーズといえば言わずと知れた国民的映画である。渥美清演じる寅さんが様々な人物と触れ合い、その人間模様に泣いたり笑ったりする物語である。作品数も相当なもので正確には知らないけれど、50作品くらいあるようだ。

ドラマの話数だとしても相当に多い。1クール10話くらいなので5クール。1年以上続けないとこの数字に満たない。それを映画でやっているのだから単純にすごい。色々な意味で今の時代では考えられない。

主人公である寅さんこと渥美清が亡くなったのは1996年。今から30年近く前だ。寅さんといえば渥美清であり、なんなら役を演じていないときであっても渥美清は寅さんであらねばならないこともあっただろうと思う。そのくらいに渥美清と寅さんは渾然一体であった。

その渥美清が亡くなった今、男はつらいよシリーズの続編は作られることはない。渥美清以外の寅さんというのは考えられないのだ。

だけども。だけれどもですよ。仮に、仮にね、今の時代に男はつらいよシリーズが制作されることとなったときに、寅さん役って誰が演じるんだろう。そんなことを昨日定年派遣おじさん、飲んだくれ姐さんと討論した。

寅さんってそもそもイケメン枠ではない。それを考えると今の時代の俳優はイケメン揃いすぎるのでなかなか寅さんを演じることを想像できない。顔が整いすぎている寅さんでは話が入ってこなそうだ。カッコ悪い姿を演じていても「あー、はいはい、イケメンのこんな一面見せちゃいます的なやつね」と、そねみ人間となり爪を噛むことになる。おじさんと姐さんとの話でもその部分は概ね一致している見解であった。

誰だろうなあとうんうんうなっているうちに姐さんがぽつり

「ムロだ」

おお、ムロか!ムロかもしれない。整いすぎていない顔、カッコ悪さの似合うキャラ。確かにムロツヨシはいい線いっているような気がする。誰が演じても絶対に全員が満足することはないのだろうけど、ムロツヨシであればある程度の人数納得しそうだ。

あー、いいですねえと結論はムロと話を締めようとしたところ、おじさんからも提案があった

濱田岳では?」

なるほど。その線があるか。ムロに比べると少し顔面力があがってしまうのでその点においては微妙かもしれないなと思ったが、彼には釣りバカ日誌のハマちゃんを演じたという実績がある。しかも好評価だ。まず演技が上手。これこれでありかもしれない。

2代目寅さんはムロツヨシ濱田岳。最終的に候補はこの2人となりこの議論は幕を閉じた。途中、大泉洋の名前も出たが、コメディのイメージはあるものの、そもそもカッコ良すぎるし、カッコ良い上でのコメディ要素なのでその点はいただけないよねと却下となった。大泉洋も抜群にイケメンってことはないのだけど、寅さんとなるとなんか違うんだよな。

こういうもしもの話って無責任に勝手に話ができるので楽しい。特に飲んでいるときのこの手の話は酒の肴として最高だ。男はつらいよの新作が撮られることも、ましてや渥美清以外が寅さんを演じるなどということもないだろうけど、ひとそれぞれの2代目寅さんがいていいだろう。

みなさんの想像する2代目寅さんはいるだろうか。と、若干のいかがでしたかブログ的な締めで本日はここらでおいとましやす。

 

音楽の好みが変わらないのじゃなく、好きだった音楽がたまたま流行った時代があっただけともとれる

音楽の好みがアップデートできていないのだと思う。とは言ってもずっと同じ音楽を聴き続けているというわけではなく、新規の音源なども聴くには聴く。どういうことかといえば、同じ傾向のものを好んで聴くということだ。好んで、というよりもそれを探しだして選んでいるといえるかもしれない。

もう少し具体的に言うと、コードで言うところの9thが好きすぎてadd9thなどかまされたらまず無視できない。顔がいいだけで異性になびくひとがいるように、9thが使われているだけで僕にとってその楽曲の評価はうなぎのぼりなのだ。そしてこれはジャンルということではなく、すべての音楽に当てはまる。めちゃくちゃ狭い範囲なのだけど、ある意味での懐の深さはあると言えるのでは。

とはいえ、やはり主戦場はエクストリームな音楽となるため、新たなバンドを探す際もその比重は自ずと大きくなる。昨日もSpotifyで叙情系のハードコアのプレイリストを聞いていたらもろに好みのバンドに出会えた。

CONVEREというバンドのshiningという曲で、曲が始まった瞬間にド9th、それに加えて疾走感も抜群だ。有り体に言うとビートが早い。賢さ低いというくらいに早い。でもそういうのもまた好みなのだ。好みの2大巨頭に出くわしたということになる。めちゃくちゃテンションがあがった。そうだ、速い音楽も好きなのだよな。あったまわる!ってくらいの速いやつ。

聞けるひとはきいてみていただきたい。加えて、アルバムまで聞けるひとはそちらも是非聞いてみてほしい。なんと、アルバム全部同じだ。同じようなコード感とテンポ、ビートで押し通している。それだけでは飽き足らず、他のアルバムを聞いてみたらそちらまで同じだった。すげえ。すげえぞ、これは。ここまでやってのけられると尊敬するしかない。インペリテリのSCREAMING SYMPHONY以来の金太郎飴ぶりだ。

僕もかつてバンドをやっていたが、なんだかんだと曲の方向性ってブレていってしまっていたのだと思わされる。貫徹とはこのことを言うのだろう。一生こうでいてほしい。そして僕もこうでありたかったとバンドから離れて初めて悔恨の念にかられた。僕のやっていたバンドの方向性はいわゆる00年代のエモと言われるものだったと思うのだけど、このバンドの音楽性に近い。このアルバムのリリース2015年だけど。2015年にこれをリリースしているのもまた素晴らしい。この手のものって僕みたいな者も含めてある一定のニーズがあるものなのかもしれないな。その波に乗りたかった。

まあ、終わったことをいつまでも言っていても仕方ないのでその気になったときにこの手の曲をまた自分で作り出せたらいいなと思う。

そもそもなぜここまで9th好きになったのかと思い返してみたらルーツはLUNA SEAにあると思う。LUNA SEAの初期は9thのみならずテンションコードの頻出していたし、メンバー本人もついついテンションコード使ってしまうと言っていた。そのLUNA SEAを神と崇めている僕だ、9thを素通りできるはずもない。9thは僕にとってのお題目といえるだろう。9thを聴き、弾くたびに解脱に近づく。前世は9thだ。そして来世も9th。9thの輪廻を生きているのだ。知らんけど。

ちなみに日本の有名なアーティストで言うと小田和正などはわりと9th感のある楽曲が多いような気がする。浮遊感と透明感のある雰囲気とでも言えばわかりやすいか。

9th、速さに加えて効果的にギターのクリーンサウンドを使いこなしているというのも楽曲の評価を大きく底上げする要素のひとつだ。エクストリームサウンドといえばごりごりに歪んだギターサウンドが真髄ではあるが、その中にあるクリーンサウンドを美しく際立たせることができるのは超能力を使いこなすに等しい才能だ。

その素晴らしさを抜群に発揮しているのがHapesfallである。速さはないけどコードとクリーンは他の追随を許さない。こともないけど神だ。ここは日本ですからな、八百万の神様がいらっしゃる。本国(アメリカ)でどうなのか知らないけれども。

冒頭で述べたように結局00年代のバンド音楽が好きというところから抜け出せてないといえばそこまでなのだけど、逆に言えば00年代が僕の好みにど直球な音楽性が流行っていたともとれるわけである。僕は90年代から浮遊感のある9th、馬鹿みたいに速い曲、絶妙なクリーントーンが好きだったなか、00年代のそのあたりのブームを経て現在に至ったと。物事、ポジティブシンキングで機嫌よく行きやしょう。

こうして今日の機嫌のよさは担保されたということである。そのうえお昼ご飯にチキン南蛮を食べたらおいしくてなおさら機嫌がよくなったし、仕事も真面目にした。唐突な上に雑な締めですがみなさんも好きなもので機嫌よく過ごしましょう。さいならー。

たくあんタルタルがよかった

 

ゾンビの眉間に釘を打ち込む工具

工具のインパクトをご存知だろうか。電動で釘打ちができるアレである。

住宅街を歩いていると家を建てている途中の現場から"パシュッ"と聞こえてくる。その音の出どころがこのインパクトなわけである。

めちゃくちゃ便利なのだろうなとは思う。そこは理解できる。しかし僕はこの道具が怖くて仕方ないのだ。だって、仕組みが武器じゃないですか。電動で釘を打ち出して木材にヒットさせて刺さるわけなので相当な勢いで打ち出していることになる。どう考えても武器だ。しかもゾンビ退治の武器っぽさがある。ゾンビの眉間にパシュっと銀の釘を打ち込んで無力化するための道具に思えてこないだろうか。あぶねえっすよ、これ。

街中でこの音が聞こえてくるたびに心の中で「ひー!退治しないで!」と思っている。それくらいにこの道具が苦手なのである。もしかして本当に最初の発想は武器の仕組みを転用していたりするのかもしれない。戦争は技術レベルを向上させるとも言うし。

ただでさえ危ないし怖いなと思っていたのだけど、こんなものまであるようだ。

いよいよ見た目まで武器に寄っている。まじもんの武器の様相だ。弾倉ついちゃってるし。これはたぶん龍が如くに武器として登場しているぞ。これだけもってカチコミとか全然いけちゃうのでは。これが合法でジョイフル本田とかできちんと売られているのだから日本は平和だ。

こういうことを言い始めると世の中危険な道具でいっぱいということになってしまう。要は使い方の問題であって、それさえきちんとしていれば良いという話なのだけど、この工具に関してはついつい想像しなくてもよい用途を想像してしまう。

他にも苦手なものとして、草刈機もかなり苦手だ。散歩中に近くで草刈機によって草刈りをしているとめちゃめちゃ緊張する。なぜかといえば、草刈りしている最中にあの丸い刃がはずれて飛んできてしまうのではないかと妄想してしまうのだ。ちょっとした病気っぽさのある発想だが、怖いものは怖い。たまに小石などにあたって明らかに硬いものに刃を当てている音がするけど、あの瞬間は警戒度マックスだ。小石のせいで刃が外れるかもしれない。そんなことになったためしはないのだろうけれども。

草刈機に関してはあまり武器っぽさは感じたことはないのだけど、もし武器として見るのであれば北斗の拳のモヒカンキャラが持ってそうだなと思う。ヒャッハーっつってな。

建築関係や園芸関係の方からしてみたら片腹痛さしかない話ではあるのだけど、世の中そういうひともいるよね、くらいの感じで受け止めてもらえれば幸いでございます。集合体恐怖症なんてひともいるわけで、くくりとしてはそのあたりと同じだと思う。いずれにせよ勝手に想像力たくましく被害妄想にふけってしまっているということなのだろうからもっと感度を落としていこうかと思います。

やっぱりこわい



今年一番の苦悶と恥辱を味わってきました

ついにこの日がやってきた。健康診断、その日である。

会社から年1度求められる健康診断で、今まではなんだかんだと会社で用意された健診を受けず、個人で手続きしてその結果を提出していたが、今回は年齢などの観点から胃カメラを含む健診を受けなければいけないということで渋々会社のものを受けることとしたのだ。

色々不安でいっぱいだったのだけど、まず予約の入れ方がなってなかった。こういったものは午前に予約を入れてサクっと終わらせてお昼ご飯を食べながらガハハがオーソドックスなやり方なのだろうけど、よく考えもせずに午後の予約を入れてしまったのだ。

どういうことかと言えば健診が終わるまでご飯が食べられないということである。14時くらいから予約をいれたので、健診が終わるまでとなるともう夕方だ。1日中食事抜き。とんだセルフ折檻である。ただ、食べないと言うことに関しては意外に大丈夫だったりしたのだけど。やはり筋肉がない分燃やすエネルギーが少ないのだろうか。高燃費おじさんここに現る。

午後から健診ということなので、午前中は仕事をする。健康診断で仕事を抜けることは事前に同じ島の方々には伝えてあって、胃カメラが本当に憂鬱で仕方ないということも伝えていたのだけど、ここにきてめちゃくちゃに不安を煽られた。「ほんっとうに辛いから頑張ってね」「次に元気な君を見るのはしばらく先か…」などと。ただでさえ不安なところにまっくろくろのネガティブ情報を植え付けられたため「腹を切るつもりで挑みます…」と力無く返すこととしかできなかった。

こうして職場の面々に激励の言葉とともに見送られて健診会場へ舞い降りた。最初の主旨説明みたいなもので今日は胃カメラがあること、胃カメラは多少辛さはあるものの、力を抜けば案外すんなり終わることなどを説明される。「それなりの覚悟ではきていますので…」と今にも腹を切らんばかりの決意の眼で説明を聞き、健診の火蓋は切って落とされた。

様々な検査を受けながら先ほどの説明を思い出す。「胃カメラのときに使う薬の影響で検査後1時間は飲食ができないので注意してくださいね」こう言っていた。ということは早めに胃カメラを済ませておけば健診すべてが終わる頃には食事ができるようになっているという寸法なのでは。そう思いながら検査をこなしていたが、一向に胃カメラに辿り着かない。

そうこうしているうちに「次の胃カメラで最後になりますので」と伝えられる。おいーー、ボスじゃねえか、大ボスじゃねえか。確かに今回の健診のメインではあったけど、どすんと良いポジションとってんじゃないよ。

しかしこうなったら覚悟を決めるしかない。事前準備としての喉の麻酔を口に含み、徐々に舌の感覚が麻痺してくるのを空を見つめながら待った。それにしても、この舌が麻痺してくる感覚って合っているのだろうか。喉の麻酔だっていっているのに、舌ばかりが麻痺するのだ。もしかしたら無意識のうちに舌のうえで転がしているだけで喉までいっていないのではないかと思ってしまう。それくらいに喉のあたりは感覚が普通だ。

やる気とか関係なくあとは検査をしてもらうしかないのでベッドに横たわり医師がスコープをぶち込むのを待つしかない。ちなみにこのとき口には猿ぐつわのようなものをはめられ、よだれを受けるトレーみたいなものを敷かれているというその筋のご褒美スタイルで待ち構えている状態だ。

医師がやってきて、「前、潰瘍見つかったんだって?」と質問をしてきた。前述の通りご褒美スタイルの僕は答える術を持たない。すると医師がなんで答えないの、このひとみたいな顔をしたので手で「少しね」とサインを作って返した。あれ絶対わざと聞いてるだろ。「ふほひはへへす(少しだけです)」とか言わせたくて。

そんなオープニングアクトを経てメインステージ開始。知ってはいたがめちゃくちゃつらい。スコープが喉を通った瞬間にゴアグラインドもびっくりの超絶下水道ボイスが繰り出された。死因胃カメラになるかと思ったわ。ぐいぐいと挿入される胃カメラとなんだかもうよくわからない液がとめどなく口から溢れる僕。立派な医療行為であるのにこんなに混沌とした空間なかなかないんじゃないかと思う。

永遠にも感じたスコープによる責め苦も終わりが訪れた。終わった直後、少し放心してしまった。目から涙をぼろぼろと流しながら。明らかに何かあったひとである。まあ一戦交えたのには違いないんですが。

その後胃カメラを受けたベッドの端にちょこんと座らされ、スコープで撮影した写真を医師と一緒に確認をした。なんだかこのシチュエーション、ちょっとAVの撮影後のインタビューみたいだなと思った。いや、そんなことはよい。肝心の所見であるが、十二指腸に結構な炎症が確認できた。十二指腸炎らしい。まあ心当たりがあるといえばあるので妥当かなとは思えた。念の為「これは十二指腸炎確定ですか?」と聞いたら「ええ、確定です」と回答があったので十二指腸炎を患うものとして生きていこうと思う。

こうして胃カメラというラスボスも乗り越え、健康診断2022の幕は閉じたのであった。

今日は透析の日だったので健診のあとはすぐ向かわなければならない。病院につぐ病院というのも僕らしくてまたよかろう。しかし、本当に何も食べてないのでそれだけはどうにかしたいと透析クリニック近くのラーメン屋に駆け込んだ。

普段であればすぐおなかが一杯になってお残ししないことに必死になるのに、今日に関しては爆速で完食し、なんなら少し足りないくらいであった。食べないでも平気だななどと思っていたけどしっかりおなかが減っていたということなのだろうな。というのが自分でわかっていないのもちょっと不安だけど。なに、これも十二指腸のなんかなんですかね。ちなみに昨日お酒を抜いていたのでその影響もあるかもしれない。

恥辱のご褒美ラーメン



ちなみに、健診の最後でお医者さんの診察みたいなものがあったのだけど、「腎臓が悪い以外は概ね良好」のお言葉をいただけた。健診結果が楽しみだ。

死の恐怖は乗り越えるのではなく、虚構によって回避する

タナトフォビアという言葉がある。日本語で言うところの死恐怖症だ。死を恐怖するって誰でもそうだろうと思ってしまいそうなものだが、そこはニュアンスが異なる。死というものを観念としてとらえ、想像したときに恐れるというのがこのタナトフォビアなのだという。

そう説明されると僕も死ぬことを必要以上に恐れたことがあった。しかも子どもの頃だ。夜、突然自分が死ぬこと、そして死んでしまうということは意識が消失するということ、それによって無になるということにえも言われぬ恐怖をおぼえたのだ。親はさぞかし困ったことだろうな。そのときの状況がタナトフォビアに該当するのかどうかはわからないけれど、自分の死について考えたときに恐怖という感情で支配されてしまったというのは今考えればセンシティブなお子である。結局どう気持ちに整理をつけたかは覚えていないが大人になればなるほどそういった思考、感情はわかなくなったように思う。

思えば、こういった恐怖感から逃れるために宗教が存在するのだろう。死というのは意識がそこで途切れ、自己が消失するということなのだろうけど、それじゃあまりに空虚すぎる。思考のセーフティネットとして宗教が考え出されたのもうなずける。大体どの宗教も死後に関する考え方というのがある気がするし。

ちなみにタナトフォビアはタナトスという死の神様が所以となっていて、そのタナトスにまつわるエピソードなどもある。ウィキペディアで確認してみたところ、ひとの寿命を延ばされて不平を言うなどわりと人間味があったりするような話もあった。死について怖れながらもこういうことを考えるなんてわりと余裕あるなと思ったが、根っこの部分は宗教などと同じように不可避である恐怖から逃れるために身近なものとして置き換えてみたりしているのかもしれない。

このタナトフォビアによって体調を崩してしまうひとというのもいるらしい。死を恐怖し過ぎて、要は死にたくなさ過ぎて具合が悪くなってしまうということだ。下手したら死んでしまうかもしれない。死にたくなさ過ぎて死んじゃうってちょっと落語っぽさがあるなと思ったのだけど、おおっぴらに言ったら怒られちゃうやつだろうか。健康のためなら死んでもいい的なニュアンスないですか。

話は少しずれて死を恐れるとはまた少し違うのだけど、センシティブなお子エピソードがあったのを思い出した。やはり夜寝る前、枕にあずけている頭から感じる鼓動が不気味で怖くなってしまって親に泣きついたことがあった。定期的に感じるわずかな振動がたまらなく耐え難くなってしまったのだ。それ止まったらあんた死んじゃうよってなものだがなんとなく怖くて仕方なかったのだ。

ほんと、面倒な子どもだったなあ。そのまま感受性豊かに育てばまた違う人生が待っていたのかもしれないが、年齢を重ね、そこそこ図太い雑な仕上がりとなった。まあこれはこれでよいのだけど、本人的には。

死生観というのは人類に意識がある以上は永遠のテーマであるのだろうな。死後の世界を描くことで安心感を得られると言う意味では丹波哲郎御大の「大霊界」もその一助となっているのだろうさらみなさんチェックしてくだされ。

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飲んだらじわじわ苦しみながら死にそうな飲み物

 

 

 

 

かめはめ波って土木技じゃないんですかね

かめはめ波といえば男子垂涎の必殺技であることは言うまでもない。僕ら世代であのかめはめ波を放つ時のフォームを真似しなかった者などいなかっただろう。あのフォーム?とピンときていない方、ウィキペディアにフ正しいォームの画像があったのでご覧ください。

味わい深さナンバーワン

誰なん、これ。ネプチューン名倉?と思わずにはいられないがフォームとしてはこういうことなのでいったん何も考えずに腹に落としていただきたい。勝手にもってきちゃったけど、ウィキペディアに載せられているものだしたぶん使って良い画像だと思う。怒られたら削除します。

さてこのかめはめ波。現実に放つことができたとしたらうれションレベルでテンションがぶち上がることは間違いない。しかし実用性を考えてみるとどうだろう。僕らはマッチョな宇宙人や人造人間、ましてや魔人などと闘う人生を送っていない。仮に誰かと肉弾戦で争うことがあったとしてもかめはめ波でケリをつけようなどと間違っても思ってはいけないのだ。

そうなってくると使い所はかなり限定されてくると思われる。ではどこに活用できるかと考えてみたところ、建築現場やその他土木作業の現場での障害物破砕にはかなり有用なのではないだろうかという結論に至った。重機を使わずに身ひとつで岩盤を破砕できるなんて素敵。

しかしどう考えても危険が伴う作業だ。ほいほいと繰り出されたらたまったものではない。決まり事が必要になってくる。法で整備されることは自然な流れだ。おそらく関連法案については物議を醸すだろう。最終的には許認可性となり、かめはめ波を打つのにお役所に届け出なければいけなくなる未来が見える。許認可制なうえに免許まで必要になるかもしれない。めちゃくちゃ特殊作業だ。

こう考えるとかめはめ波なんてない方がいいんじゃないかなと思えてくる。平和に安穏に暮らしていくなかでかめはめ波は不要なのだ。そういうことにして長年憧れ続けたかめはめ波への想いを断ち切ることとしようと思う。

なにせ夢に見るほどだったのだ。夢の中でかめはめ波を放って大喜びするというくだりのある夢をかつてよく見ていた。しかも30代くらいまで。大人も大人。おじさんになってもその調子だったのだからかなりの思い入れだ。どうしちゃったの、おれ。その他エピソードとして子供の頃はドッヂボールで球を投げる時に「かめはめ波ー!!」と言って全力投球していたりもした。その他人気技は波動拳とヨガファイア。時代だな〜。

かめはめ波と共に人生を送ってきたと言っても過言ではないではないか。いや、過言です。過言なんですけどここはひとつ少年の日々にさよならするためのイニシエーションということでそういうことにしておいてくださいな。よし、じゃあ行きます。

 

今日ここで、僕はかめはめ波を卒業します!

 

ありがとうかめはめ波。さようならかめはめ波。次の誰かの夢として、素敵な必殺技でいてください。僕は君とのよき時間を過ごせたことを誇りに思ってこれからの人生を生きていきます。

なんかわけわかんなくなってきてしまったな。まあこれでかめはめ波をうつ夢もこれから先見ることもありますまい。大人になるってなあこういうことだ。

ちなみにかめはめ波ウィキペディアで初めて技を出したときのことに触れられていたのだけど、火事を鎮火するためのものと書かれていた。ああ、そうだ、フライパン山の火事を消してたなということで、けっこう本当に土木技だったのだなという新たな事実に気づいたところでこのへんにしときますか。

みなさんもよきかめはめ波と共にあれ。

Slipknotがかつての自分にとってのJUDAS PRIESTになっていることにちょっと引いちゃったよ

ふと気づいた。Slipknotが1stアルバムを出してから20年以上経っている。専門学校に通うために上京をしてきた年に知ったのだと思うから1999年か。めちゃくちゃ前だな。

あの当時、音楽性、ビジュアル、ライブパフォーマンス全てにおいて度肝を抜かれたものだ。あんなバンドいなかったものな。The Berzerke(オーストラリア)がいたじゃないかと言われればまあそうなのだけど、あれはまた趣旨が違う。

センセーショナルにデビューして、あっという間に世界を釘付けにしたバンドももうデビュー20年以上。大御所である。

そこで思ったのだ。今やSlipknotって、僕らが高校生くらいのときのJUDAS PRIESTやIRON MAIDENのポジションなのではと。僕が高校生だったのは90年代中盤から後半くらい。そこから20年くらいを引くと70年代の中盤から後半なわけなのでJUDAS PRIESTなどはまさにといった感じだ。まだメタルゴッドと言われる前、ロブ・ハルフォードがロッカローラという曲を志村けんみたいな髪型で優しく歌っていた頃だ。(曲としてはよいです)

当然僕は後追いで両バンドを知ることになり、その匂い立つヘヴィメタルの虜になったわけだけど、Slipknotでも同じことは起こっているのだろうか。エクストリームミュージックに目覚めたキッズたちが古きよきバンドも聞こうじゃないかとSlipknotを聞く。

あれ…なんかモヤっとするこの気持ち、なに…?なんだろう、Slipknotのこと新しく出てきたバンドだなーという気持ちでいたのに古参とされていることにモヤりを感じるのか?いや、認めねばならないだろう。僕はもう立派な中年。懐メロバンドとなりつつあるのだ、Slipknotは。メロあんまりないけど。おじさんになるというのはこういうことであり、こういう気持ちなのだな。

だがしかし。「あの頃はよかったよ。それに比べて今のバンドは…」「そんなチャラついたズンドコ言ってるバンドじゃなくSlipknot聞けい」には断じてならない。僕が若かりし頃にそういうおじさんたちはいたが、「知らんがな」としか思えなかったからだ。僕は心の中でひっそりとSlipknotの1stアルバムを愛でる。

キッズは1stを聴いてどう思うのだろうか。音が悪いのは確かだが、楽曲としてはかなり斬新であったと思う。"20年前の音楽"として古臭く感じたりするものかぜひ感想を聴いてみたい。

JUDAS PRIESTやIRON MAIDENに関して言えば音は確かに悪かったけど、自分が好きなバンドのルーツはここにあるのだなと非常に勉強になった記憶がある。スルメ的要素は否めなかったが。今のキッズもSlipknotに同じ感想を抱くのだとしたら興味深い。

これだけSlipknotのこと言っているのに実は1stをめちゃくちゃ聴いて2ndで少し「あれ?」となり、3rdからはほぼ曲を知らない。そんくらいの感じなのになんだか胸アツみたいな熱量で語ってしまって申し訳ねえ。僕は結構荒削りの1stアルバムとうのが好きで、そこでオリジナリティや勢いがウケて売れたは良いものの、2ndアルバムから垢抜けるとスっと引いてしまう部分があるのだ。LostprophetsとかAlexisonfire、Across Five Aprilsなどがもろにそれだった。Alexisonfireが本格的に売れて垢抜けたのは3rdからだけど。

実際のところ良い意味で垢抜けているのは間違いなく、曲も洗練されているのは理解できるし、「あー、これは売れるな」とは思えるのだけど、そのスマートさがどうも馴染めなかった。泥臭さというか不器用さというかそういうものを感じたかったのだ。売れないと解散しちゃうので大いに垢抜けるべきなのだけどね。ちなみにLinkin Parkは2nd聞いたときに「5thみたいな出来だな…」と思ったことはショナイな!

すっかり懐メロ回顧録になってしまった。何がいいたいかっつーと青春時代に心に刻みつけられた音楽というのは一生ものになっていくのだなということだ。今のキッズが聴いている最新のバンドもいつかSlipknotJUDAS PRIESTのようなポジションになり、回顧の対象となっていくのだ。感慨深え。JUDAS PRIESTなんてメタルゴッドって言われているけど、そろそろ仏になっちゃうかもしれないからね。メタルブッダっつってな。なんちゃって!

さあ、軽快な昭和サンオツギャグもでましたし本当に怒られるんじゃないかという不謹慎ぶりを発揮してしまったので今日のところはさらばです。

街角Slipknot選手権 #5 グレイグ