普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

死の恐怖は乗り越えるのではなく、虚構によって回避する

タナトフォビアという言葉がある。日本語で言うところの死恐怖症だ。死を恐怖するって誰でもそうだろうと思ってしまいそうなものだが、そこはニュアンスが異なる。死というものを観念としてとらえ、想像したときに恐れるというのがこのタナトフォビアなのだという。

そう説明されると僕も死ぬことを必要以上に恐れたことがあった。しかも子どもの頃だ。夜、突然自分が死ぬこと、そして死んでしまうということは意識が消失するということ、それによって無になるということにえも言われぬ恐怖をおぼえたのだ。親はさぞかし困ったことだろうな。そのときの状況がタナトフォビアに該当するのかどうかはわからないけれど、自分の死について考えたときに恐怖という感情で支配されてしまったというのは今考えればセンシティブなお子である。結局どう気持ちに整理をつけたかは覚えていないが大人になればなるほどそういった思考、感情はわかなくなったように思う。

思えば、こういった恐怖感から逃れるために宗教が存在するのだろう。死というのは意識がそこで途切れ、自己が消失するということなのだろうけど、それじゃあまりに空虚すぎる。思考のセーフティネットとして宗教が考え出されたのもうなずける。大体どの宗教も死後に関する考え方というのがある気がするし。

ちなみにタナトフォビアはタナトスという死の神様が所以となっていて、そのタナトスにまつわるエピソードなどもある。ウィキペディアで確認してみたところ、ひとの寿命を延ばされて不平を言うなどわりと人間味があったりするような話もあった。死について怖れながらもこういうことを考えるなんてわりと余裕あるなと思ったが、根っこの部分は宗教などと同じように不可避である恐怖から逃れるために身近なものとして置き換えてみたりしているのかもしれない。

このタナトフォビアによって体調を崩してしまうひとというのもいるらしい。死を恐怖し過ぎて、要は死にたくなさ過ぎて具合が悪くなってしまうということだ。下手したら死んでしまうかもしれない。死にたくなさ過ぎて死んじゃうってちょっと落語っぽさがあるなと思ったのだけど、おおっぴらに言ったら怒られちゃうやつだろうか。健康のためなら死んでもいい的なニュアンスないですか。

話は少しずれて死を恐れるとはまた少し違うのだけど、センシティブなお子エピソードがあったのを思い出した。やはり夜寝る前、枕にあずけている頭から感じる鼓動が不気味で怖くなってしまって親に泣きついたことがあった。定期的に感じるわずかな振動がたまらなく耐え難くなってしまったのだ。それ止まったらあんた死んじゃうよってなものだがなんとなく怖くて仕方なかったのだ。

ほんと、面倒な子どもだったなあ。そのまま感受性豊かに育てばまた違う人生が待っていたのかもしれないが、年齢を重ね、そこそこ図太い雑な仕上がりとなった。まあこれはこれでよいのだけど、本人的には。

死生観というのは人類に意識がある以上は永遠のテーマであるのだろうな。死後の世界を描くことで安心感を得られると言う意味では丹波哲郎御大の「大霊界」もその一助となっているのだろうさらみなさんチェックしてくだされ。

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飲んだらじわじわ苦しみながら死にそうな飲み物