普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

自然介入による割れ窓理論回避ルート

先日、風吹き荒ぶ日があった。この季節らしい風の吹き方だなと特に気にも留めていなかったのだけど、その日は地域の瓶、缶、ペットボトルを捨てる日だったのが良くなかった。

いつも通りに捨てられたそれらが強風で舞いに舞い、また間の悪いことに回収場所が川沿いにあるものだから次々と川へと飛散していった。水面に着水し流れていってしまったものも問題ではあるが、それは景観上はまだマシで、それより問題に感じたのは川べりにたどり着いたペットボトル等である。

普段は無機質な都市河川然とした光景があっという間に無法者が跋扈していそうな地域の川といった様相となった。めちゃくちゃモラルの低いひとびとが飲み終わった飲料の缶やらペットボトルを迷いなく投げ入れているとしか思えないくらいに荒れた光景になったのだ。言ってしまえばちょっとスラムみすら醸し出していた。

そこで思ったのだ。今眼前にある光景はある意味で事故的に発生したものであるけれども、この荒れた光景が出来上がってしまったことをきっかけとして「こんなんなっちゃってるなら別に気を使わずゴミとか投げ入れちゃってよいのでは」となってしまうのではないかと。いわゆる割れ窓理論というやつである。地域の未来が分岐した瞬間だ。そして地域の住人の民度が試される場面でもある。

結果としては今川べりにペットボトルは存在しない。めちゃくちゃ民度の高い住人たちが掃除したとかであれば地域に骨を埋めるほど拍手喝采エピソードであるが、現実は都市河川のゴミ問題に無関心だ。ではなぜゴミがなくなったかというと、昨日のスコールのような局地的大雨で川が増水して散乱した資源ごみたちが流されていったという真顔エピソードが起こっていた。これはこれでバッドエンドのひとつだと思う。

あのペットボトルたち、どこまで流れていくんだろうか。昨今問題となっている海洋プラスチック問題に加担してしまうのだとしたらギルティだ。散らかっているのを知っていて何もしなかった僕が悪いと言われてしまえばそれもそうなんだけど。

それにしても海洋プラスチック問題で対策として行われているレジ袋有料化、これどうなんでしょうね。僕は必要があれば迷いなく購入するのだけど、そもそも問題の根本てそこではないのでは?といつも思うのだ。有料化で利用される機会が減るかもしれないというのはリデュースという意味ではまったくわからないということではないけど、その辺に捨てちゃってそのゴミがマイクロプラスチック化してしまうのが問題なわけで。

レジ袋の利用そのものを制限するよりはその処理方法について適正なものを啓蒙していくというのが根本からの解決につながるのではと思うのだ。そもそもごみをすぐそこらじゅうに捨ててしまうという感覚がまったく理解できないので性善説みたいのは通じないのかもしれないけれども。

道端に吉野家の牛丼の容器が打ち捨てられているのをみた時は「そうはならんやろ」と素で思ったものな。なに、歩きながら牛丼食べてんのかい、お前さんは。そうじゃないと道端にいきなり牛丼の容器は発生しない。ただ、歩きながら回鍋肉弁当をかき込んでいるひとを見たことがあるので牛丼の歩き喰いは完全にないものとは言えない。多様性だなあ。

結局、割れ窓は自然現象の介入によってリセットされたので地域のスラム化は避けられたが、地域が荒れたりするのってささいなきっかけで「これくらいならいいかな」が積み重なって気づいたときには取り返しがつかないものとなるのかもしれない。と、たまには真面目に考えてみるのでした。平和に暮らしたいっす、心底。