普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

人生1度じゃなかったら

勤め先のフロアはまあまあ高層階にあり、エレベーター待ちをするときなどは辺りを一望できるエレベーターホールでぼーっとエレベーターを待つ。そんなとき、ふと思うのだ。

「ここから落ちたら死ぬな」

と。何を当たり前のことを思われるかもしれないが、鍛え上げられたゲーム脳を持ち合わせているため、これまでプレイしてきた様々なゲームのシチュエーションでこの高さから地面に着地をするまでの所作を想像することがある。

例えばゼルダ。パラセールと呼ばれるアイテムでモモンガの滑空アクションかのごとく高所から安全に地面に降り立つことができる。ゼルダをプレイ中の期間などは「ここから飛び立ってお昼ご飯を食べに行けたらめちゃくちゃショートカットだよなー」などと考えていた。

だが現実にはそんなものはなく、この高さから飛び立てば十中八九どころか百中万くらいの確率で地面のシミになる。1度きりの人生をやすやすと終わらせるつもりはないので今のところゲーム脳ながらも生きながらえているし、きちんと落ちたら死ぬと思えている。

しかし、人生1度きりでなかったとしたら?

身投げして死ぬには死ぬけどそこで人生終わりということではなく、死の感覚を味わったうえでさらに人生継続という世界線を想像したのだ。これまたゲーム脳の延長であるのだけれども。1機死んで次、みたいなね。

そんなことになったら生き方が雑になることは間違いない。何かあればすぐ死んでしまうから慎重に生きているわけで、死なないならそれなりの無茶をするひとというのは出てくるだろう。道路をろくに確認せずに横断するだろうし、危険な場所によく下調べもせずに入り込んで希少なものを求めたりするかもしれない。人生が迂闊になるのだろう。1人生1死だからこそ保たれている秩序があると思う。

それこそ、前述の身投げをエンタメとして楽しむ層が出てくることすら可能性としてあると思う。そして、多くはないながらも死を歪んだ性に結びつけて享楽にふけるものも出てくると思うのだ。

死を何度も繰り返すなんて非常識かつ空想的だけど、こっちの話に結びつけるとただ選択肢がひとつ増えただけみたいになってしまって世界の広さ、深さ、歪みを想像してしまう。

まあでも、ガチ不死だと惰性感が出てしまうから回数制限があると無茶をしながらも少し人生ピリっとするかもしれない。

あと、仮にそうなったらなったで生き物として存在していくなんらかのバランス調整がはたらいて生殖能力が下がったりするのだろうか。寿命自体は変わらなくても個体を失う可能性は下がるということなのだろうし。

まあそもそも、厳密にいうとこの話でいう”死”は”死”ではなく、人生が終わる時にはじめて死と言える何かを迎えると考えられるかもしれないわけだけれども。

と、そんなことを考えながら食べたお昼ご飯写真を載せて本日はこれにて。

汁が減ると”明日もお待ちしてます”の狂気。