普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

ぽくない?

僕の実家の宗教様式は仏教である。とはいえ、ゴリゴリに信仰しているとかそういうのではなく、ほぼ無宗教に近いような、いわゆる一般的な日本の宗教観の家だと思う。

祖父母はもう少し敬虔な仏教徒だったらしく、朝晩仏壇に向かってお経をあげているのを見たことがある。それは時代なのか地域性なのかはわからない。

世界にはそれはそれはいろいろな宗教がある。そして全てにとは言わないのだろうけど、だいたいの宗教にはシンボリックなアイテムがあると思うのだ。そしてそれをデザインするひとがいる。それは昔からの様式を受け継いでそのデザインになっているのだろうと思うのだけれど、その元々の部分が気になる。元々のデザインってどう生み出されたのだろう、と。

初期に作り出された宗教アイテムというのは「ぽくない?」から始まっているのではと個人的に思っている。

というのも、神仏、精神世界というのは視認できるものではないわけで、それを可視化したかのように思わせる、もしくはひとをそういった状態にしやすくさせるよう誘導するためのアイテムであると思うのだ。言ってしまえば雰囲気作り。意味があるのかないのかということで言ったらラブホにかつてあった回転ベッドと同じだ。

蝋燭ひとつ灯すにしても、火を灯すということに本来の意味があるとすれば床に立てて灯すだけで良い。手に持つことが宗教的に意味があるとしても、燭台は派手である必要はない。それでも宗教アイテムとしての燭台は美麗な装飾が施されていることがある。なぜか。「ぽいから」なのではないだろうか。

儀式を重ね行うとうちに司祭がいうのだ

「うーん、蝋燭ひとつとってもさあ、うちにはオリジナリティってのがないわけよ。火がついてればそれで良いって時代は終わってると思わない?もっと雰囲気出して行こうよ」

と。絶対いま思いつきで言っただろみたいなテンションで言い始めたのだ。

そこで手先の器用なものが抜擢され、最初のうちは実用的な燭台を提案するものいまいち司祭に響かない。あるとき思い切って悪ふざけ的に燭台に羽とかつけちゃって投げやりに提出したところ「ぼいね〜!」と思わぬGOサインがでる。そこからごてごてと装飾が施されるようになりなったのではないか。うん。ないですね。

 

宗教のことほぼ何も知らないうえに何も調べないで書いてるんでそういう事情に明るい方がいらしたら電車の網棚にある少年ジャンプを眺めるような気持ちで対応していただきたい。ああ、あるなあくらいの気持ちになるでしょ?その気持ちは無でしょ?心に波風を立てないよういただけますと幸甚です。

 

宗教とかではなくても、なにかの立ち上げの時期というのは「ぽくない?」「ぽいね〜」で盛り上がることは往々にしてあると思うのだ。それが会社の立ち上げても、バンドの曲作りでも。

 

というのをここまで書いて僕自身が「ぽい」だけで乗り切ってるからこんな思考になるのかもしれないと気づいた次第。僕はこの先もふんわりと雰囲気で生きてこうとおもいます。