普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

曖昧な終わり

最近喫煙者は少なくなってきていると思う。健康志向であったり、単純にたばこの値上がりによるものだろう。

僕は喫煙者であるのだけど、今のところはたばこは吸い続けている。今までに何度か禁煙、というか休煙したことはあるのだけど、なんとなくやめていただけなのでまたなんとなくで吸い始めていた。

おそらく次にたばこを吸わなくなるタイミングは妻が子を宿したときであろうと考える。

もしかしたらそこでたばこをやめることがあるかもしれない。

 

が、しかし。喫煙者コミュニティというものがあるのだ。それは結構重要だ。

ふだんそこまで絡みのないひとであっても、喫煙所で会えば挨拶をする。挨拶ついでにちょっとした会話もする。それを繰り返していくうちに、仲良くなれたりするものなのである。

たばこをやめるというのはそのコミュニティから抜けるということを意味する。たばこを吸わないということそのものよりも、属するコミュニティがなくなるということが問題だ。

 

たばこはニコチンによる中毒性からやめられないという事をよく聞くし、実際にそうなのかもしれないのだけど、個人的に思うことはニコチンそのものよりも、日々のルーティンとしてたばこが組み込まれているからやめられないのではないかと感じる。

たとえば、朝起きて目覚めの一服。食事をとって食後の一服。その他一日の決まったタイミングでたばこを吸うことがある。

そのタイミングでたばこを吸わないということが落ち着かないのだ。

なぜそう思うかと言えば、透析中に軽く食事をとったあとでもたばこを吸えるわけないのでたばこはそこに組み込まれていない。

そのうえ四時間という時間の間当然たばこは吸えないので吸わない。

でも透析の最中にたばこを吸いたいと思わないのだ。なぜなら最初からそこにたばこが入り込んでいないから。

そういったわけでルーティンによる喫煙が禁煙の妨げになるのでは、と思うわけだ。

 

それを考えると、一日のなかで、どこかしらのタイミングの一服というのを徐々に減らしていけば最終的には喫煙という行為が生活のなかから消えるのかもしれない。

 

それにしても、たばこもずいぶんと値上がりしたものだと思う。僕が初めてたばこを吸ったときは一箱250円だった。500円で二個買いボタンとかあったものな。

それが今や一箱450円。ほぼ倍だ。もともと嗜好品ではあるのだけど、嗜好品らしさがどんどん増していっている。

たばこの価格の内訳のうち、結構な部分が税金にまわっていると聞く。おっさんが冗談ぽく「我々は高額納税者だよ」などと笑っているが、まあまあいい得ているかもしれない。

嫌煙家はたぶん喫煙者はゼロになればよいと考えているのだろうけど、たばこの税金が潤沢でなくなったら嫌煙家へもそのしわ寄せがいくことなどは考えないのだろうか。

でもきっと、そのときは新たな標的を見つけて攻め続けるのだろうな。

 

喫煙者は肩身が狭くなってきていると思うけれど、その原因は一部の嫌煙家だろう。

なんでもそうなのかもしれないけれど、何かを極端に嫌うアンチ勢はなにしろ声がでかい。一部の意見をさも大勢のひとがそう思っているかのような言い方が得意だ。主張の分母もなにかと大きくなりがちだ。

 

たばこによる健康被害を訴える声はもっともだと思いつつ、そういった一部のたちの悪い嫌煙家の意見が通ってしまうとなんだか屈服したみたいでおもしろくないわけだ。

 

もう少し住み分けがうまくできたらよいのになと思う。

と、いうことを言っていること自体もしかしたら気に入らないのかもしれない。

ことなかれ主義気味な僕からしてみればどこかで互いの妥協点を見つけていきたい。