最近思うのが、陰謀論もだいぶ言葉のニュアンスが変わってしまったなということ。これはもうコロナ以前、コロナ以降ではっきりとわかれると思う。コロナ以前はある意味ファンタジーに近い、都市伝説と同じ箱に入っている、”ないとはわかっているけど、あるものとしてそれをおかしむ”というものだった。少なくとも僕が知るような話ではそうだった。そしてまたある意味ではアカデミックですらあったと思う。いわゆる知識層みたいなひとたちの趣のある情報的娯楽であったというか。
それが最近では陰謀論という言葉のネガティブさったらない。扱いとしては出どころの怪しい宗教とか、完全にひとを陥れようとしているマルチ商法にあたりと同じ扱いといえるのではないだろうか。
実際にコロナ前までの半笑い感は一切なく、盲信しているひとが目立っている。そのあたりがまた良くない手合いの集団と重なってしまうのだ。宗教、マルチを盲信しているひとたち同様、彼、彼女らの話す内容には考察や「if」がなく、自分が手に入れた情報は「そう」なのである。大抵の陰謀論者が否定的な意見に聞く耳を持たないところからもその傾向であるといえるだろう。
僕のもとにはいってきた陰謀論のバリエーションで言うと地下にトカゲ人間が住んでいたり、光の勢力と闇の勢力が戦っていたりとか、あまりにも荒唐無稽な設定ガバガバな話も多い。光と闇って…最近FF3とかやった?とにかく、それを盲信してしまうというあたりに「ああ…」という力無いため息ももれるというものである。
それにしても陰謀論者の方々、全員とは言わないまでにしても古きよき日本がよかったとするひとや、その他スピリチュアルに傾倒しているひとが多いようである。
GHQ占領前には今と違う漢字の使い方、例えば「私」を和多志」といっていたと主張したり、普通の文章の中でも「気」という漢字を「氣」に置き換えて使っていたりする。僕からしてみたら「和多志」は絶対に気が合いそうにないスタートアップ社長が好みそうな漢字の使い方(顔晴るみたいな)だなと思うし、「氣」に関しては高崎晃(LOUDNESS)のソロアルバムのタイトルだなあくらいにしか思えないのだけど、とにかく本人たちがそういうんならそうなんでしょうねということである。
そういうかなり偏った物事の見方、自国へのストレートとは言えない誇り、愛を見ているともはやキャッチーさすらあると感じる。それはRPGなどに登場するデフォルメされた日本をテーマとした集落のようである。ドラクエ3のジパングみたいな。そんなんあるわけないでしょうと思えるぎりぎりまで「日本人」をピーキーにチューンアップしているのだ。排他的であるのもまたそれっぽさに磨きをかけている。
それにしても陰謀論は荒唐無稽だし、ハッピーなエピソードばかりではないのだけど、陰謀論者のみなさんはそれらについて「あって欲しい事実」だと思っているのだろうか。それともあったら困るけど、それを知ってしまった自分が感じるジレンマを楽しんでいるのだろうか。いずれにせよその話を信じているうちは自分が主人公になっていると言う感覚なのかもしれないな。本読んだりゲームやったらいいのにな。いくらでもその手の設定を楽しめると思うんだけどなあ。
コロナもいい加減落ち着いてきて、ただの逆張りマンたちは言うこともなくなってくるのだろうし、そうなったら陰謀論者の多い中高年の間でファンタジー小説とかRPGとかが大流行りするかもしれない。