普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

こういうときにうかれないでいつうかれるのかって話じゃないですか

子が誕生日を迎えた。去年の感動からもう1年経つのかと感慨深いものがある。その感慨よりも1年経つことの早さにちょっと引いちゃっている気持ちのほうが大きいかもしれないけれども。

めでたい感じにしようじゃないかと飾り付けなどをし、これでもかというくらいに浮かれてみた。

フリー素材ばりにわかりやすくうかれている

僕ら夫婦はふだんイベントごとにそうとうに関心が薄く、バレンタインやらホワイトデーといった小粒のイベントはもちろんのこと、男女の盛典、クリスマスもほぼアクションを起こさないばかりか、男女間イベントの大本営である互いの誕生日ですらイベントとして特別何かをすることはない。それを考えるとこのうかれようは僕ら夫婦の歴史で山が動いたともいえる出来事である。それはもう動いた。富士山が海外からにょきっとはえるくらいには。

もちろんおめでとうという言葉はかけあうし、そのとき欲しいものがあればそれをプレゼントとするということにはなっているので完全なる冷血人間とかではないんですよ。そして念の為言っておくとお互いそれでよしとしているということは強調しておきたい。ただ単に僕がそういうのめんどくさいからやらないでいるだけだったらどモラ夫でしかない。違う、違うんですよ、断じて。

これまでこういった温度感でイベントごとをやりすごしてきたが、子のこととなれば事情が異なる。親のエゴで子にイベントの楽しさなどを味わわせてあげられないというのは不憫だ。ぜひともどんちゃんとイベントを盛り上げていきたい所存。

とはいえ、「何かしてあげたい」というのもまた親のエゴであるのかもしれないなとも思ってしまう。何しろ子はまだ物心が実装されていないので、親が良いと思うことをやれる範囲でやるしかない。後年、子が写真を見返した時に「ただうかれてるだけじゃん!」とか言われてしまえば返す言葉もない。

あかちゃん用のケーキまで作っちゃったりして

でも、ふだんイベントごとをことごとくスルーしてきた2人がそこまでうかれるほどに君の生まれてきた日を喜んだのだよということはそのときに説明しようと思う。

今年は物心実装前の親主体のイベントだけれども、今後誕生日に対しての希望、主張なども増えていくのだろうなと思うと少しの憂いと大きな期待感をおぼえる。

思えばこどもの頃から誕生日観は変遷している。

なんかケーキとか食べられる日!→よくわからんけどめでたい日!→生まれてめでたい日→産んでくれてありがとうの日→え、もうこんな年齢?(イマココ)

というように。いやもちろん今も産んでくれてありがとうの気持ちは持ち合わせてますけれどもね、いくらなんでも年齢の数字と気持ちが釣り合わなすぎて。お恥ずかしい限りでございやす。

そういうこともあって自分の誕生日そのものにあまり重要性や期待感を持ちにくくなっていた昨今だけれども、子はこれからしかない。ドドンパ(富士急)の発車したてくらいの勢いで色々なことを学び、あれこれと習得していくのだろう。なんなら一生発車したてのスピード感でもよい。

本当に、生まれてきてくれてありがとうだなあ。そしてこの記事をいつか子に読んでもらえたらそのときは泣いちゃうかもしれないな。

でも考えたら他の記事は子に読ませない方がよい内容もまあまあありそうなので子にはブログのことは内緒にしておこう。