秋の気候も板に着きかけてきているのではないかという9月末日である本日。外から蝉の鳴き声が聞こえてきた。完全に季節外れである。そう思うのは完全に人間側の都合かつ感想であって、蝉側からすればただ単に鳴いたのが今日だっただけで、そこに特に意図はないのだろうと思う。もしかしたらタイミングを逃しに逃しまくってせめて9月中にと半ばヤケクソで振り絞った鳴き声であった可能性も否定し切れるものではないが。
虫の鳴き声で季節を感じ、それを風情と感じる向きがある。夏であれば前述の通り蝉だし、夏の終わり頃にはひぐらし、そして秋も深まれば鈴虫。
確かにわからないでもない。「そういうもの」として日本人の心に刻み込まれているものではある。しかしどうだろう、家の外から聞こえてくれば”風情”であるその数々の音にフォーカスとしていくと、どの音の発生源にも存在するのは家の中で遭遇してしまったら即討伐対象となるビジュアルの彼奴等であるのだ。
でも世の中ってそういうものかもしれないなと思う。遠くから聞こえてくる綺麗事をその時点では称賛しながらも、いざ自分ごとになったら拒否感をおぼえる。ああ、人間の心はかくも汚れているものなのか…
と、闇堕ち寸前のエルフみたいなことを言ってしまっているが、要は虫が嫌いすぎるという話である。何かのタイミングで鈴虫で秋のお裾分け!みたいなことを言っているのを見かけて冗談じゃないと思ってしまったが故に秋の風情の源に思いを馳せ、相容れない存在へのお気持ちを改めて表明した次第。
思えば子どもの頃、祖父の家で秋になると鈴虫を飼育していた。今考えればそんな恐ろしいことはない。いつでも家の中に鈴虫が放たれる可能性が存在しているのだ。妻に聞いたら妻の実家でもそんなことがあったというので地方の昭和の文化のひとつだったのだろうか。今だったら何かしらのハラスメントにつながりそうですらある。
そもそも鈴虫とか、ビジュアルがギリギリすぎる。生ているうちから佃煮めいているし。生まれたときから煮物界隈だ。もうなんか自分でも何言ってるかわからなくなってきたけど、そのくらいなんかもう嫌ってことだけ伝われば幸いです。
これからの時期、気温とともに僕のテンションも低下の一途を辿るが、虫の脅威にさらされなくなるというのが唯一にして最大の救いである。
今、最も懸念しているのは子がいつか虫に興味を示してしまったときのことだ。世の中にはそういうものは存在しないのだよと本気で教えたい。でもそういうことをすると反動でえらいことになったりする可能性があるので虫嫌いということ自体子にふせてこの先の人生過ごしていくのが吉か。
子よ、虫とは無縁の人生であれ。