昨日、9月9日は重陽の節句ということで行事食である栗ご飯を食べた。毎度のことではあるのだけど、重陽の節句というものがどういうものかをまったく理解していないまま食べたので事実上ただの栗ご飯の日である。
それもいかがなものかということで例によって後追いで重陽の節句について調べてみたところ、数字の奇数は陰陽思想においては陽数と考えられているらしく、その陽数一桁台最大の数字が重なる日ということで重陽ということになるとの由。
なんというかね、「陰陽」という言葉が自分の中の中2心をくすぐってくるわけです。なにをきっかけにそうなったのかは思い出せないのだけど、陰陽=なんかかっこいいみたいな発想になるのだ。キョンシー作品に出てきた道士とか孔雀王とかあのあたりなんだろうか。そこまでどハマりしてた方でもないような気はするけども。
それはよいとして、その陽数最大の数字が重なる日ということでその影響力は多大なものと考えられていたようで、めちゃくちゃめでたいけど、めちゃくちゃ不吉なことが起こる可能性もある日とされていたようだ。でもそれってなんでも起こりうる日ということであって一周まわってただの日常をなんじゃないかなと思う。どっちかしか起こらないならまた話は違うけど。
陰陽から端を発した行事でなんでまた栗ご飯?と思ったら、そこは単純に栗の収穫時期がかぶっているので季節のものを食して無病息災を祈念しましょうということらしい。
節分のときの豆(魔滅、魔を滅する)みたいに大仰な由来はどうもないようだ。でもやるなら栗だし「苦裏」あたりとか良いかもしれない。苦しみの裏側をよく知ることにより本当の幸せを噛み締めようみたいな。ちょっと新興宗教っぽさが出てくる。
本件は菊の節句ともいわれ、むしろ菊酒などを飲んだりして菊の方がフューチャーされがちなようであるようであるが、菊と栗ならそりゃ栗でしょう。判断は間違っていなかったと強く主張していきたい。
ただね、栗ご飯来月も含めてあと2回あるんですよ。なにかっていうと栗ご飯を繰り出してくる行事食のラッシュタイムがはじまるようだ。かつての年始の小豆粥ラッシュを思い出すな。
栗ご飯は栗を(妻が)下ごしらえするところから作るので、皮剥きのターンで結構苦戦する。昨日は皮の硬いところが妻の爪の間に入ってしまったようで聞いただけでヒッとなることような負傷をしていた。栗剥き器買おうかな。
それにしても栗だけに限ったことではないし、よく言われていることではあるけれども、下ごしらえに手間がかかってなおかつ剥くのにも労力が必要なものを最初においしく食べたひとは人類という単位で大きな功績を残したひとと言えるだろう。いま穏やかに裕福に暮らしているひとの中には最初に栗をおいしく食べたひとが転生しているケースがあるに違いない。ウニとかも。ごぼうはちょっと弱いので町工場の社長とかだな。
それでは登場していただきましょう。
陰陽パワーの栗ご飯!
りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん!!
口の中で爆発する行事食の完成だ!
すいません、適当で。