普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

出口がばがばモラトリアム

自分が未熟であるとかそれ以前に、いち成人としてふるまえているのかが怪しい。それどころか、正直なところそこまで深く考えたことすらあったのだかどうなのだかというレベルだ。

同年代の人間と比べると背負うものもそんなに多くないと思うし、たぶん苦労もしていないほうなのだろうと思う。

それでもやはり世間から見れば「大人」という年齢だ。大人とはどういうことをいうのだろうかと考える。

年齢で、とはいったものの歳を重ねたくらいで精神的に成長するのかといえばそうではないと思うし、そもそも精神的に成長している状態が大人なのかという疑問もある。

こんなこと言っていると話が進まないので思わずウィキペディアを見たら「思慮分別があること」というのはひとつの指針であるようだ。うむ、たしかに。

他にも大人とは、というものに対して精神的、金銭的に自立し、ひとりでの生活がきちんと出来る、責任感があり世の中のために頑張れる一般常識のある人間などということが書いてあるサイトもあったが、全部あてはまらないといけないなら世の中の大半の成人は「大人」ではない。少なくとも僕が仕事を通じて接するひとはそうだ。

でもそんなパーフェクト超人と一緒にいても疲れるのでほどよくダメなひとが好きだし、一緒にいて心地よい。モラトリアムから脱せていないカエルになりかけのおたまじゃくしくらいのところで止まっているかもしれない。

でもカエルになりたくないおたまじゃくしはきっとそんなに少なくはないのではないかと思うし、セミだって土の中で一生を過ごすつもりだったのに泣く泣く土から出ることもあるはずだ。

人間にだってそんなことがあってもよい。

いや、親離れできてなくて生活費を稼げないのは大いに問題ではあると思うけれど、この場合なんでもかんでもしっかりしようとしすぎないでゆるくいくところはそれでいいじゃないという意味でとっていただければ。

あれこれ言いながらも僕もひとから生まれたひとの子なので親との関係は良好でいたい。なるべく心配はかけたくないものだ。

身体のこと、仕事のことなどで今まで散々心配をかけてしまったのでこれ以上は堪忍やでという気持ちにもなっている。親もな。

あれこれあって身体のことも仕事のこともある程度安定期には入ってきたところで実家に帰ると、なんだか親との会話もいままでと違うもののように感じてくるから不思議なものだ。

友達と話しているような、そんな感じすらする。うちは父を早くに亡くしているので父の情報が曖昧なのだけど、そんな話もがつがつ聞けるようになった。なんなら夫婦馴れ初めまで聞いてしまった。

そういうときは親子というよりは成人同士としての会話をしているなと思う。そういうときにいわゆる「大人になったな」と感じたりするのだ。お酒を飲みながら身の上話を聞く日がくるとはねえ。

親と対等に話せるようになったとき、そのひとにとって「大人」になったという考え方もあるかもしれない。

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とくに意味なく帰省時の車窓(2020年初撮影)

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ちなみに右下のちっこいのが母だ。

僕も小さいが母は輪をかけて小さい。そういう種族なんでしょうな。

ここにきてやっと少し「大人」ということを考えるようになってきたけど、これでまたひとの親になるというとがつんとやられるのかもしれないな。

もっと年齢がいっていないときに親になるのと今の年齢で親になるのではまた感じるものが違ったのだろう。

 

ぐだぐだ言ってきたけど、ビッグマックひとりで食べられるようになったら大人なんだよ。そんなもんだよ。

おれはまだおなかいっぱいになって残しちゃうよ。

 

今週のお題「大人になったなと感じるとき」