普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

不足をまかなうもなにもないのが当たり前

今週のお題「運動不足」だそうで。

運動不足とは文字通り運動が不足している状態である。そういった意味で言うと僕の人生において運動が充足していたことがあったのかというと甚だ疑問である。いや、疑問とか言ってみたけどそんな時期、タイミングは1秒だって存在しなかっただろう。

それは果たして不足というのだろうか。恒常的に運動をしていない状態であるのだから、それがニュートラルな状態なわけである。そして、身体を動かさないとスッキリしないとか、そういったタイプでもない。

まさしく怠けの権化。神様がかろうじて人間としての生を与えてくれてはいるが、最後の最後までこいつ妖怪のほうが向いてるんじゃないかなと悩んだことだろう。床とか天井にべたーっと張りついてそのまま特に動かない妖怪。いや、天井は張り付いてるのつらそうだから床だけでいいかな。害もなければ益もない。強いて言うなら話し相手くらいはなる。そのくらいのラインの存在だ。なかなかの悲しさはある。ギリギリのところで人間にしてくれてありがとう、神様。

などと言い訳がましく運動しない理由を探しがちではあるのだけど、たまに、本当にごく稀にランニングでもしてみるかと思うことが人生で何度かあった。

直近では2、3年前。夏の日。休日の昼間、試しに一度走ってみるかと近所を走ってみたところ、少しずつならいけるかもしれないと運動に対する前向きな気持ちが芽生える瞬間があった。

なんとなく自分でも嬉しかったので週明け出社し、会社のひとにそのことを話したところ、そのひとの親戚の旦那さんがランニング後玄関で心臓発作で倒れ、そのままかえらぬひととなったエピソードを聞いた。まだ若かったらしい。

あっという間に芽は枯れた。そのときから僕の運動に対する気持ちという大地は不毛の地となっている。開墾する気にもなりゃしない。

「健康のためなら死んでもいい」ってやつじゃないか。不健康がデフォルトな僕としてはひとまず現状維持としたい。

 

こうしてブログを書き綴ることも習慣とすることによってなんとか定期的に続けていられるけれど、運動も同じようなものなんだろうか。続けることによってやらないこと自体が落ち着かないというようになっていくとか。

そのあたり向き不向きの話になってくるのかもしれない。あとはその面白さを見つけ出せるかどうかというのも大事であると思う。

僕は長い間ギターを弾いていたけど、全然良さを見つけることもなくやめてしまうひともいるわけだ。僕なんかもう引くほど飽き性なのによくやってたなと思う。しかも最初は特に目的もなくただただ他人の曲を弾くだけで、ライブをするなどという目標もなく、バンドのメンバーなどもおらず、黙々とひとりでギターを練習していた。

と、書き連ねることで気づくネクラ属性。陰キャ丸出しやんけ。実際そうなので否定のしようもないし、そんなに気にしてもいないのだけども。

運動の話に乗っかろうとすること自体がおこがましいといえばその通りである。

実際のところ、運動ってしたこたあったかなと思い返すと本当にない。学校の体育ですらほぼない。病気を理由に、というか病気にかこつけてサボり倒していたのである。

ギリッギリのところでラウンドワンのスポッチャに行ったのが運動といえば運動か。

もちろんそのあとは浴びるほど飲んだ。そちらのほうが本領発揮だった。妖怪酒飲みおじさん降臨である。

 

このままでは本当に床にはりつくだけの存在となってしまいそうだ。老後とか。

せめてリングフィットアドベンチャーはまともにやろうかな…

それかだれかアウトドアに誘ってください。もうひとに任せるしかない!

 

それでは本日はこれにて失敬。