普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

心の位相

石原さとみの結婚が話題である。個人的にはおめでとうの感情すらわかないくらいに他人事なのだけど、石原さとみロスだのなんだのという言葉も飛びかっていた。朝の情報番組みたいなところからだから本当に言われてるのかは疑わしいところではあるけれど。

まったくの赤の他人の慶弔に感情を揺さぶられることというのはある意味での共感性なのだろうか。僕はそういうところがさっぱりだ。

石原さとみだけではないのだけど、有名人の情報で僕ら一般人が知ることができるのは基本的にテレビやその他映像作品等からのみである。

もっと言ってしまえば顔と、切り取られた発言、役柄だったりする。そのひとの本質は知る由もない。

そこで思ったのが、有名人に入れあげるひと、ことさら見た目を重視しているひとというのは好みの顔である有名人に自分の理想の人物像を重ね合わせているのだろうなということだ。しかもちょっと思い込み強めに。

顔以外知りもしないひとに一喜一憂できるというのはそのくらいの思いがないと無理だろう。

でも、そう思わせることができる有名人というのはやはり一般人が持ち合わせない特殊な雰囲気があるということなのだろうな。容姿が良いだけでのしあがれるのであれば、群雄割拠のお耽美ワールドが誕生し、国取り合戦が頻発するところである。

耽美といえば、かなり前に天使禁猟区という少女漫画を読んだことがあるのだけど、名前からもむんむんとただよっているようにお耽美ワールド全開の漫画であった。名だたる大天使たちが全員イケメン。しかも当時のV系的イケメンで、なんだかじゃれあって「おい、そこは進入禁止じゃないのか…!」という描写もあった。

でもまあ容姿端麗の群雄割拠というのはああいった少女漫画みたいなことなのかもしれないな。喜ばしいひとにはたまらないのだろう。でもあんなんばっかいたらイケメンのありがたみが薄れて逆にうっすい顔のひとのほうが希少性が高まるというものだ。世の中バランス。

念のため言っときますけどディスってませんからね。いちおう言っとかないとね。

 

話がそれたが有名人の慶弔にほぼ心を動かされない僕ではあるのだけど、数年前に大杉漣が亡くなったとの報を聞いたときには得も言われぬ悲しみが心を覆った。なんだったんだ、あの感情は。特に大杉漣に思い入れがあったとかそういうわけではないのだけど、やけに心を揺さぶられた。遠縁の親戚が亡くなったときよりは確実に胸がずっきゅんとなった。あの感じを皆様は頻繁に味わっているということなのか。だとしたら心労すごそうだな。

 

石原さとみの結婚の話は昨日先輩と定年派遣のおじさんと飲んでいるときにおじさんがたまたまニュースをみたらしくそれで知らせてくれたのだった。そこから石原さとみなら長澤まさみのほうがいいよなという知らんがなトークを繰り広げ、最終的には長澤まさみを推す会としてお開きとなった。どうでもよさがすごい。

 

この先、大杉漣を超え、地震に襲われた欠陥住宅ばりに心を揺さぶられる有名人の報道ってあるものだろうか。

ああ、インペリテリが速弾き塾はじめました!とかなら食いつくかもしれない。いやそうでもないな。心のバランスとは難しいものですな。