普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

敬老に基づき敬礼

連休になるたびに、どの日がなんの日なのかわかっていないままただただ連休を過ごすということが多いのだけど、ブログのお題コーナーを見ていたらどうも今回の連休には敬老の日がはいるらしく、今週のお題が「おじいちゃん・おばあちゃん」であった。

いつかは到達していく先としてのおじいちゃん。というかすでにちょっとおじいちゃんぽさが出始めているのではと自分でも感じながら生活をしている。

いつごろからだったか覚えてはいないのだけど、妻はどうも老人が好きなようである。あくまでも善良で愛嬌のある老人に限られるが。

そういった意味でいうと僕はいま妻の中で「理想のおじいちゃん」としての育成コースを歩まされているのかもしれない。青田買いという言葉は聞くけれど、枯れゆくものをいかに理想の枯れかたへと誘導していくかというのは言葉として何が当てはまるのだろうか。

風情としては枯山水っぽさがあるかなとふと思ってみたりもしたが、枯れるという字が入っているだけで全然ニュアンスが違う。こういうとこあるよな、自分。と、思慮の浅さを反省しつつも着々と老人力を磨いていこうかと思う。

老人力とはいってみたものの、どういったところが老人力として高ポイントを叩き出すかを考えてみる。

・ちょっとよれたハット

・ちょっとよれたポロシャツ

・ちょっとよれたスラックス

・靴はやたらハイテクなスニーカー

・手は後ろ手に組む

これはかなりの老人力なのではないか。しかも根拠はないけれど、穏やかそうじゃないか。the老人、巣鴨スタイルである。

でもこれはあくまでも現代におけるおじいちゃん像であって、僕らが年齢的にも高齢者と言われる頃にはスタイルに変化は訪れている可能性は大いにあり得る。

そもそも、今の老人たちは自分が若い頃からしていた格好を続けていった結果、あの巣鴨スタイルみたいなものが出来上がったのだろうか。

それともどこかのタイミングで巣鴨デビューをする日がきて、巣鴨になじむ格好をチョイスしていった結果がああなのか。

前者であるとすれば僕らが高齢者となる頃には結構な割合でラフな服装、というかユニクロ全身コーデみたいな老人が増えるのだろうか。

後者であったとしても巣鴨が永遠とは限らない。新しい老人のオアシスが生まれ、その土地にあったドレスコードが生まれるのかもしれない。感覚的に目黒あたりとかそうなっていったりするんじゃないかなと思っているが、目黒好きなひとから目黒寄生虫館の展示物と処されたりして、そうなると寄生虫館に来る方をがっかりさせてしまうのであんまり真面目に聞かないで結構です。

 

僕の家も妻の家もあまりすぐに会えるよう距離感に祖父母がいないので、敬老の日になにかをできるようなことはなさそうではあるけれど、街の老人をつぶさにに観察し、いつかの敬老の日に老人の写真集を発売してビレバンで売り出そうかと思います。