普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

視界には入ったものだけが世界であるという究極の状況

僕の祖母は認知症で施設に入っている。会うのは年に多くて2回程度で、当然のように僕のことが誰かはわかっていない。

認知症と診断されてからずいぶん経つけれど、思えば最初の頃から僕のことは誰だかわかっていなかったようだ。年に2回程度しか会わない存在であればそれも当然か。僕もそういうものだろうなとそこまで心の動く出来事ではなかった。

最近は祖母の人生で関わってきたすべてのひとが認識できていないので母、ようするに娘のことまでわかっていないとなるとそのことのほうが心がきゅっとなる。

前述のように認知症になってから長いので、あらゆる認知という認知が崩壊しきっているわけで、正直なところ今の祖母をどうとらえるのが正しいのか判断しかねる部分がある。大袈裟かもしれないけれど、人間とは、人生とはというところまで考えてしまう。ちなみに身体だけでみるとめちゃめちゃ健康だ。90歳も後半に差し掛かっていると思うので歳に見合った衰えはあるけれど。

思えば祖母が認知症ではないかと疑われ始めたのが祖父が亡くなってすぐのタイミングであった。長年連れ添った伴侶が亡くなると残された者は目に見えて弱るなどという話を聞いたりするけれど、絵に描いたようなそれだ。そういうのって深く通じ合えていたからこそなのかなと思う。自分の人生の大半を一緒に過ごしたひとが突然生活から抜け落ちてしまうわけだ。喪失感は計り知れない。祖父母は夫婦で商売をやっていたのでなおさら距離は近かっただろうし。

そんな喪失感から心をカバーするために脳が負担となる部分を消去して、いわゆるストレージに余裕をもたせて動作(生活)を快適にとはたらきかけているのではとも思ったりする。

認知症について詳しく調べたことがないのであくまでもイメージで書くと、認知症ってそれまで存在していた自制心なども消失していき、言ってしまえばリミッターのはずれた状況、もしくはリミッターなど存在すらしない状況となってしまっているのだという認識だ。

ということとなるとどうなるかというと、今まで心のどこか片隅で「これをこうしたらどうなるのだろう」とは思いつつも社会通念上行動には移しえないことも制限なく行うようになるのではと考える。

そういった元々絶対にひとには言わない、言えないそのひとのブラックボックスが開かれている状況であるという可能性もなくもない。

そして、仮に元々頭の中に少しも思考として存在していなかったことを認知症が進んでからやりはじめるようになるのだとしたらよいか悪いかは別として、ある意味での成長、変化であり、クリエイティブの根源となり得る可能性だってある。

僕の祖母がどこまでの行動をとっているかは正直なところ詳しくは知らないのだけど、少し前までは健脚であったためとにかく施設からの脱走を頻繁に試みていたらしい。どれも未遂に終わっていたようであるので施設の方々には頭が上がらない。

ちなみにまったくの偶然ではあるのだけれど、仕事で祖母の施設の方と電話する機会があったときには本気でお礼を言おうか迷った。公私混同甚だしいので我慢できてよかった。

 

そんな祖母、元気なうちは祖父と床屋を営んでおり、祖父が常連相手で忙しいと祖母にカットをしてもらうことがあった。

高校生の頃、祖母にカットのお願いをしたところ「最近流行の髪型があるけどやってみるかね?」との提案があり、僕も流行にはのっておきたいお年頃。ぜひにと流行のイケてるカットを依頼し、仕上がりを確認したらテクノカットであった。流行終わりからの経過時間上、最も微妙なタイミングでのテクノカットであったと思う。

祖母の「最近」を読み取る能力がこの頃の僕にはなかった。たぶん20年以内は最近だったのだろう。

 

見事テクノカットに仕上げられた僕はその反動でメタルに没頭していくのであった。と、秒でばれる嘘をなんのメリットもないタイミングで書いたことを後悔しております。

 

今の祖母の視界には何が映っているのだろうか。そして映ったものに対し何かしらの感情を抱くのだろうか

僕との思い出も心の中どこかの二度と開かない引き出しの中あたりにでも入っていてくれたらちょっと嬉しい。