哲学系の本に書かれていたという話でこんな話がある。
一艘の船があるとする。その船を修繕するたびにパーツを入れ替え、最終的には最初に使われていたパーツはひとつもなくなってしまった。それは元々あった船と同じ船といえるのか?
そういった内容だ。直接自分で本を読んだわけではなく、ひとからそんなことが書かれている本があると聞いただけなので、この問いの本質は想像するしかないのだけど、問いかけに対しては自分なりの答えは出せる。
僕は同じ船であると言えると思う。それというのも、パーツが入れ替わってしまっていたとしても、求められる役割、果たせる役割は変わらないわけで、それは「その船」として存在している意義がそこにあるからだと考える。
そして、ひとびとの記憶、印象の中で「その船」が同じ存在であり続けるのならパーツの入れ替わりはただの代謝でしかないと思うのだ。
今、代謝という言葉を使ったけれど、人間も一緒で全ての細胞が生まれ変わって、入れ替わったとしても、そのひとではないというふうには言えないだろうと思う。記憶などのそのひとの自我が保たれていればの話ではあるけれど。
逆に言えば今この瞬間、10秒後で記憶が全く違うものになっていたり、失われてしまっていたらそれはそのひとではないとも言えるかもしれない。
船にしても、ひとにしても周りとの関係性は重要視されるのではないかと個人的には思う。
そんなことをなぜ思ったかと言えば、今日生茶を買ったからである。ペットポトルの飲み物の。
え?なんで?と当然感じると思うので説明すると、生茶って発売当初と味が全然違くないですか、ということなんですよ。
発売間もない生茶のことは結構印象に残っているのだ。正直なところ味が全然好きじゃなかったので。ディズニーランドなんかにいくとスポンサーだかなんだかでキリンが絡んでるものだからパーク内で買えるお茶が生茶しかなかった。僕はその頃あまりジュース等を飲むタイプではなかったので仕方がないから生茶を買うわけだけど、前述の通りお茶としてどうなのくらいに思いながら飲んでいたのだった。なんというか、香りをつけるために香料でもいれてるのかな、これ。というような印象だったと記憶している。
その後も発売はされていたようだけど、当然手に取ることはなく時間は過ぎてゆく。そして数年前、職場の対面のデスクに座っているひとが生茶を飲んでいる事に気付いた。よく飲むなあ、あんなの。と、思いつつボトルを見るとデザインが一新されていて、なんというか"おいしそうなデザイン"になっていたのだ。へー、と思いつつ購入、久々に飲んでみたら全然別物じゃないかと驚いたのだった。
僕の味覚が変わったということも否定はしきれないけれど、あれは明らかに中身が全然違うと思う。
と、ここで冒頭の話になるわけだ。
中身もデザインも変わり、残っているのは名前のみ。これは果たして生茶と言えるのだろうかと。個人的なことを言えばあの頃の生茶ではないから今飲んでるくらいの感じはある。
果たして自分以外はどう感じるのだろうな、というのが本日のぼやきです。
あ、あと中身が変わって名前だけ残っているっていえばWANDSね。デビュー当時から結局全員入れ替わっちゃって最終的に全然違うひとがWANDSの曲をやっているって状況らしい。
でもWANDSはどうでもいいや。