普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

向き合ったその先に

ペットを亡くしてしまったひとの記事を読んだのだけど、その中でペットの死の表現を「虹の橋を渡る」としていた。どうやら結構一般的に使われている表現らしい。

初出はアメリカだかどこかの誰かの散文詩らしい。ちょこちょこっと調べただけなので曖昧だけれど。

そこで気になったのは死というものに対する表現方法だ。言ってしまえば婉曲された表現であると言える。

死というものに対する向き合い方はひとそれぞれで、価値観もそれぞれだ。それだけに色々な表現方法があるものなのだろうなと少しだけ調べてみた。

例えば、“泉下の人となる“というものがある。あの世を訪ねるひととなるという意味らしいけれど、あの世のことを黄泉ともいうし、それ由来なのだろうなと思われる。

他には“巨星墜つ“。テレビなどで大物が亡くなるとこの表現が使われていたのを見た気がする。言葉から伝わってくるニュアンス通りだよな。巨星が堕ちると。でも実際のところ、物理的に巨星が堕ちてきたら堕ちたポイント周辺は壊滅的な状況になるだろうな。業界の大物が亡くなったら比喩的な意味でなく周辺の人々は右往左往するだろうからあながち物理的に巨星が堕ちるのと大差ないのかもしれない。

他で気になったのは“白玉桜中の人となる“だ。これは文人がなくなったときの表現らしい。いかにも文人のひとがなくなったんだなあという表現だ。お耽美ですらある。調べてみたら白玉楼という文人が死後に行くとされる白玉作りの楼閣があるとのことで、そこに行くという意味でこんな表現となるとのことだ。なんかもじれば普段使いできそう。というかしたみたい。

と、ここまで死の表現方法をざっくりと調べてみたところで、はて、英語にはそんな表現があるのだろうかと思い始めた。そもそも虹の橋を渡るだって英語由来らしいし。

で、調べてみたらやはりあるらしい。

そこで気になったのは“buy the farm“というもの。直訳したら畑を買うという意味にしかならないけれど、かなりの婉曲表現として死を表す言葉となるらしい。由来はよくわかっていないようだけど、戦死者をさすかなり限定的な使われ方をするようで死者を埋葬する場所をfarmとするという考え方もあるらしい。

“join the great majority“というのもあまり日本の考え方っぼくない表現だなと感じた。言ってしまえば多数派に加わるという意味であって、その多数派といったら何かといえばいままで亡くなっていった人々だ。確かに超多数派。圧倒的多数派だ。ここまできたら婉曲というか歪曲までいかないかと感じてしまわないこともない。

日本で言う白玉楼中の人となるクラスの言い回しだと思う。これはこれでよい。

そもそも今回挙げたものはかなり限定的な使われ方をするのだろうからなかなか使う機会はないのだろうけど。

死というセンシティブなものに対する表現というのは感慨深いものがある。

これからも表現は増えていくのだろう。

特に発言小町界隈で増えそうな気がする。なんか婉曲表現好きそうだものな。偏見でしかないけど。先謝っときます。

すみません!