普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

うに豆腐という刺客

食に関してはわりと攻めの姿勢で向き合うように心がけている。世の中自分の知らない食べ物がやまほどあり、その味を知ることがないまま人生を終えてしまうのはあまりにもったいない。ちょこちょこ顔を出す僕の中の貧乏根性のひとつであると言えるだろう。

あまり良くない傾向なのかもしれないけれども、他人が知らないものを食べていて、絶賛しているようなものはすぐ食べたくなる。最近YouTubeさまぁ〜ずチャンネルをよく見ていて、そこで紹介されていた"うにのようなビヨンドとうふ"と呼ばれるものもまんまと食べたくなってしまった。

実をいうと近所のスーパーに売っているのは以前から知ってはいた。知ってはいたのだけど「ふ〜ん、うに豆腐ねえ…まあうにとはほど遠いんでしょうな」と素通りしてしまっていたのだ。食に関して攻めの姿勢とか言っておいて思い切りスルーしてしまっているのもどうかと思うところではあるが、さまぁ〜ずチャンネルで紹介され、高評価を得ているのを見て手のひらを返した格好である。率直に言ってさもしい。お恥ずかしい限りで。

ただ、購入したのは僕ではなく妻であった。あっという間に影響された僕の心を見抜いて買ってきてくれたのだろう。さすがである。ひと喜びして週末の楽しみとしてひとまず冷蔵庫で保管することとした。

そうしてやってきた週末。食卓にうに豆腐が舞い降りた。

豆腐界随一のシズル感

さまぁ〜ずの評価では「おー!うにだ!」という言葉も出ていた。期待が高まる。

いや、君は豆腐では

見た目としては結構うにに寄ってる部分もあるかなとは思うが、そこは期待値を上げすぎているからそう見えているだけで、結構豆腐だ。空気に飲まれているな。

なにはともあれいざ実食。

食べた感想を率直にいうと「うにではないなあ」というのが正直な感想であった。しかしそれはあまりマイナスな感情ではなく、こちらから歩み寄ればうにといえばうにかも、くらいにはうにだ。無遠慮にうにっぷりをアピールしてくるかと期待してしまっていたがさすがにそのようなことはなかった。ただし、食べ物としてレベルが高いものであるのは間違いない。きちんと美味しい。たぶんまた買うと思う。

世の中、豆腐丼という好み、評価がわかれる食べ物があるが、このうに豆腐であれば豆腐丼ウェルカムである。むしろ食べ方のお作法として推奨すらできる。なによりうにをこの量食べたら明らかにギルティであるが、このうに豆腐であれば無罪だ。尿酸値高めの方も安心。

このうに豆腐、そのまま食べても美味しいのだけど、調味料としても使えるらしい。いわゆるうにクリームのパスタ風みたいなこともできるというわけだ。いいやつじゃないか。

またひとつ知らない食べ物を味わうことができて本当によかった。ありがとうさまぁ〜ずチャンネル。ありがとう妻。

ただ、世の中には食に関して保守的なひとというのは結構いるもので、そういうタイプのひとはあまりこの手の商品は手に取らないと思う。そのことから考えると早くに終売してしまう可能性があるので早めに2回目をいっておこうかなと思う。

食べ物としておもしろくて美味しいという優等生なのでみなさまも是非食べてくだされ。

 

タイパ重視VS作品の情緒

タイムパフォーマンスという考え方があるらしい。略してタイパ。あるらしいというか昔から考えそのものがあったとは思うのだけど、最近になってわかりやすく取り沙汰されるようになったというほうが正しいような気がする。それはやはり動画の視聴が生活に組み込まれるようになったからなのだろう。

今日、ネットニュースで見たのだけど、大学の講義が動画で配信されていて、その動画を倍速で視聴している学生さんがいるのだと知った。90分の講義が長くてつらいらしい。それ自体は頭に入ってさえいれば効率的だなと思う。ただ、倍速の理由が「普通に長くて辛い」だったのはただ我慢ができていないだけなのではとも思ってしまった。そこは「時間がもったいないから内容さえ理解できればできるだけ短縮したい」くらい言ってくれるとかっこがつくような気がする。それこそ本当の意味のタイパなのではないだろうか。

講義に関してはそれでも内容さえ入ってくればという前提なのでそれでよいのかもしれないが、映像作品に関してはどうだろうか。映画なりドラマなりアニメなどというのは製作者が演出として意図的に作られた間というものが存在する。倍速視聴ではそれを汲み取るのはなかなか難しいように思う。そもそも倍速視聴するタイプのひとは間云々よりも会話の流れからストーリーを理解できればよいという考え方なのかもしれないけれども。

ここまでだと僕が倍速視聴に否定的な考えを持っていると思われるかもしれないが、別にそんなことはない。そういう視聴のタイプがあっても良いし、そういうのができる世の中になったんだなと便利さに感心すらする。

でも僕は倍速視聴はしないだろう。なぜなら会話をじっくり聞かないと頭の中で意味をきちんと理解できないのだ。会話をきちんと咀嚼できないとも言える。なんなら「え?今なんつった?」とか「え、なに、どういう意味?」と巻き戻しすらする。等倍速より視聴時間がかかっているということだ。カンの悪いおっさんである。

そこを考えると倍速とかで作品を視聴してきちんと内容を理解できているひとってものすごく頭の回転が速いひとだったりするのかな。それは素直に羨ましい。攻殻機動隊とか倍速で1回見て理解してしまったりするのだろうか。

作品を倍速視聴することに関してクリエイターが苦言を呈していたことがあり、それに対して視聴者が「見る側の勝手でしょ」と反応しているのを見たが、これに関してはクリエイター側の意見に肩入れしてしまうなと思った。見る側の勝手といえば確かにそうだし、それが購入されたものであればさらにその意見は補強されるのだけど、作った側が見たひとに何かを訴えたいときに考え抜いた間があるはずなのだ。それを感じ取ることができない環境で視聴されるのは複雑な気持ちだとは思う。秒速5センチメートルとか言の葉の庭とか倍速で見たら情緒も何もあったものではないような気がするんだよな。タイパと情緒は相性悪いのか。かなり前書いたけど、どこでもドアができたとして移動時間を飛躍的に短縮できても電車で移動という情緒は残るだろうなというのと同じようなことかもしれない。

しかし時代は変化し、その時代にマッチしたものが生まれるものである。もしかしたら倍速専用の台本、演出で作品が作られるかもしれない。それでどこまで情緒を表現できるかに挑戦するクリエイターが現れる可能性だってじゅうぶんにあり得る。僕が知らないだけでもしかしたらもうそういう作品を作り出しているクリエイターはいるかもしれない。情緒新時代の幕開けも近いか。

基本的に倍速視聴傾向については静観する所存だが、YouTubeを見ていると出てくるなんかよくわからん早口広告だけは受け入れることまかりならぬ。あれ、なんであんな感じなんでしょう。なんだかイライラしてしまうし、内容も下世話で胡散臭いものが多い。僕に広告の裁量権があったらお家断絶レベルで駆逐すると思う。

人生は有限なのでタイパ重視で行動するというのは現代らしい生き方なのかもしれない。そういう意味でいうと僕はあまり現代的な生き方ができていないというか、向いていないタイプなのかもしれない。あまり気にしてないけど。ゆっくり機嫌良くってのもまたよいものです。

ところでタイパって何度も言っている間ずっと思っていたのだけど、”タイパ”ってタイ焼きパーティーの略かなって一瞬でも考えませんでしたか。たこ焼きパーティーを”タコパ”と略すように。

思ってない?あーそうですか。

思ってないそうです。

こちらからは以上です。

ザ・情緒の写真

 

妻からの唐突バターナッツかぼちゃ(ポタージュ編)

ある日、妻が仕事から帰宅すると同時に僕に見慣れない物体を渡してきた。

ひょ…ひょうたんですか…?

ひょうたんのような形をしたこの物体、バターナッツかぼちゃだそうである。渡されて開口一番

「スープを作ってたもれ」

いや、嘘。たもれとか言ってない。雅なオーダーということはなく普通にスープを作ってほしいと頼まれた。でもまあまあいきなりではあるけれども。この間ご飯を食べに行った時に美味しいスープだなあと思ったものがバターナッツかぼちゃのポタージュと教えてもらったのでどこかで見つけて買ってきたようだ。

ポタージュは作ったことがないけどちょっと前に手に入れた舶来品、クイジナートのフードプロセッサーを使うチャンスだ。いっちょやってみっか。

まずはへたと底を切り落とし半分に切り種などを取り除く。

底を切りすぎてしまった

形以外は概ね通常のかぼちゃだ。普通のかぼちゃは一回レンチンしないと硬すぎて怖いので切れないけど、こいつはそこまで硬くなかった。素直に切断されて好感がもてる。

あとはよい塩梅の大きさにカットしてたまねぎと一緒に鍋にぶち込む。

たまねぎがちょっと少なかった

で、完成!

すごい黄色い

完成じゃないよ、舶来品どうしたって思いますよね。僕も読んでいる側だったら間違いなく思う。事前に「いえーい、クイジナート〜」みたいなこと言っといて出得てこないんかいと。もしかしてクイジナート買ったとか嘘ついたん?とまで思うかもしれない。

違う、違うんすよ。がっつり撮り忘れた。ハイライトだってのに。なんなら動画すら撮ろうと思っていたというのに。意外に必死になっちゃってその余裕がなかった。

忘れてしまったのは悔やまれるが見ての通り滑らかな仕上がりであるのでフードプロセッサー氏が大活躍したのはわかってもらえるだろう。ただアメリカ生まれだからなのか音量に遠慮がなかった。住宅事情が異なる国からやってきたフープロ氏にも日本の流儀を教えてやらねば。

なにはともあれ無事完成だ。味見をしてみたらきちんとポタージュになっていた。いやうまい。ポタージュになるために誕生した植物と言われても違和感がないくらいにポタージュぶりが板についている。本当は裏漉しとかそういうのまでするともっとおいしいのだろうけど、晩ご飯にというくらいであればそこまでしなくてもじゅうぶんだ。初のバターナッツかぼちゃ調理およびポタージュ作り、大成功と言っていいだろう。ほぼ仕事したのフープロだけど。

クイジナートのフードプロセッサー、あると大変に便利なのでアメリカから是非招聘されてみてはいかがでしょうか。いかがでしょうかって言われてもねえ。でもリンク貼っちゃう。

なんだか普通にクイジナート紹介したいだけの記事みたいになってしまったけど全然そういうことではないのでご承知いただきたいところ。どっちかというとバターナッツかぼちゃを推したい。推せるうまさだ。そうか、バターナッツかぼちゃこそリンク貼っとくべきか。

あとなんでかはわからないけどやたら高価なバターナッツかぼちゃのぬいぐるみも貼っとこう。

よし、これで一連のバターナッツかぼちゃについてはすべて出し切った。次回のポタージュ作りもどんと来いだ。

ちなみにポタージュではおかず力が低いのできちんとしたおかずを作ろうとはした。作ろうとした結果南米あたりで出てきそうな炒め物が出来上がった。

プエルトリコあたりで出てきそう

きちんとしているかはともかく、まあまあのおかず力を発揮晩ご飯は平和な白米消費タイムとなったのであった。

自分で買い物して料理するだけだとどうしても保守的になってしまうのでひとに買ってきてもらったもので調理するのもよいものだと思ったのでした。みなさまにおかれましてもよき南米っぽい炒め物ライフを🍳

カフェという言葉に対して斜にかまえてしまう

今日はそこそこ暑い日であったけど、最近は暑さもすっかり落ち着いてきた。夏も終わるのだなとセンチメンタルな気持ちにすらなっている。ちなみに去年の今の時期の自分の記事を確認したところ、9月に入った瞬間夏が終わったことを嘆いていた。それに比べると今年の夏はフェイドアウト気味に終わっているので情緒面では安定しているといえる。

暑さは落ち着いてきているのだけど、盛夏の頃より外に出ていないような気がする。今の方が圧倒的に散歩などに向いている気候になったというのにだ。自分なりに理由を考えてみたところ、夏を取りこぼしたくなくて多少躍起になって外に出ていたという線はありえるなと感じる。夏に対して貧乏性なのだ。

しかし考えてみてほしい。夏で「暑い」と感じる時期は1年のうちでほんのわずかだ。今年は多少前倒しで「暑い」が始まったが、通常7月〜9月中旬ころまでである。1年のうちのこの貴重な時期をなんとしても満喫したい。そういった思いから酷暑の中外に飛び出し水の妖精よろしくじゃぶじゃぶと汗をかいてごりごりに体力を削られ帰宅するのである。

夏が好きで歩み寄っていたつもりだが、こうして文章にしてみると辛さしか味わっていないように見えるかもしれないけれどもこういうのってのは心意気の問題なので深く考えてはいけない。

夏本番も終わり意地でも外に出てやろうという時期も過ぎ去ったが、週末は外出をしてみた。久々の喫茶店への訪問だ。喫茶店というよりはカフェなのだろうけど僕の気持ちの問題で「カフェ」という言葉にどうしても斜に構えてしまうところがあるのであえて喫茶店と呼ぶことにする。このこじらせ、たぶん一生なおらなそうだ。

さて訪れた喫茶店。とにかくご飯が食べたかった。なんだか面倒臭くてご飯を夕方近くまで食べていなかったのだ。いわゆるカフェメシ的なものをオーダーしてやろうという気満々で鼻息荒くライスプレートをオーダー。

ポークトマトソース煮込み

京都風に言えば"豚肉をトマトと一緒に炊いたん"である。家でもこの手のものは作ったりするけど、似たような料理でもひとが作ったものって味に意外性があるので頼んでみるものだなと思った。おいしかったです。

そして妻の頼んだものはこれ。

プルドポークサンド的なもの

プルドポークってなんだろうなと思ったが、コンビーフ的なもののようだ。おそらく自家製だろうけど、こういうの作れるのっていいなと思う。しっかりしているというかなんというか。だいぶ前に知人が自家製コンビーフを作っていて、めっぽう美味しかったので自分でも作りたいなと心の片隅でずっと思い続けているがまったく手がつけられていない。じっくりとか腰を据えてとかそういう行動が本当に苦手なのでかなり気合を入れないとこの手のものは取り掛かれなそうだ。そう、しっかりしていないのですな、僕は。あと、パンがよかった。「パンがよかった」という言い回し、知性を感じないが「パンがよかった」のでそうとしか言えない。あるじゃないですか、そういうとき。

食べ物はきちんと美味しくて満足だったのに加え、妻の頼んだレモンスカッシュの提供スタイルがかわいかった。

レモンシロップは自家製

こういったかわいさをスっと差し出すことができるのもいわゆるセンスなのだろうなと思う。僕には一生かかっても捻り出せそうにない。喫茶店に行くことで一生でなし得ないことに気づきすぎた。第3の目開くな、これは。

ちなみにお店の名前はモンドパーラーというお店だ。最寄駅が急行駅の一つ前という付近に住んでいるひと以外あんまりこないんじゃないかなというロケーションではあるけれど、長いこと営業しているようなので地元の方々から愛されているのだろう。そういうお店を営むって憧れる。

以前は立派に趣味といえるほどに喫茶店巡りをしていたけど最近めっきりだ。色々最近落ち着いているように思うし遠征しての喫茶店訪問なんてのも良いかもしれない。

皆さまにおかれましてもよき喫茶ライフを☕️

ちゃっかりワインは飲む

 

お酒を飲まない楽しみというものを見出しはじめた

ただのルーチンのように飲酒をしているが、それなりに日々の晩酌は楽しんでいる。しかし飲まない楽しみを見つけてしまった。

お酒を飲まなかった次の日、おそろしく食事がはかどるのだ。

て、あれ?そのお顔はいまさら何言ってんの的なお顔ですか。お酒を飲まないと食欲がもりもりわいてくるというのは世間の常識でしたか。

何はともあれ食欲があるというのは嬉しい。というよりも、食欲がわかないというのは生き物としての危機を感じる。そういうこともありどうにか通常の量を食べることができないものかと手をこまねいていたところに先日の健康診断。検査のためにお酒を抜いたことが功を奏し爆速で通常の量の食事をたいらげるという近年稀に見るエレガントな食事となったのだ。

ひとりの家ご飯のときなら食事の途中で思ってたよりも早く限界に達してしまっても「ちょっと多かったな…あとで食べよう」と、とっておいて次回の食事のときに食べてしまえばよいのだけど、他のひとご飯を食べに行ったときなどはお残しをしなければいけない。作ってもらった食事を残すということにものすごく抵抗を感じるし、一緒に食事をしているひとから見てもあまり印象の良いものではないだろう。そういうこともあり、通常の一人前を問題なくたいらげることは必須ということである。

そのような小賢しい処世に関する思いを胸に会社に行ったときは定年派遣おじさん等とお昼ご飯を一緒に食べる。昨日も出社をしていたのでおじさんとお昼ご飯の相談をしていた。僕が会社に行く理由はお昼ご飯を食べることだと主張して憚らないように、おじさんも出社時のハイライトはお昼ご飯だと声高に語る。

昨日はだいぶ気温も落ち着いており、多少距離のあるお店にいくこともできるだろうという判断でおじさんお気に入りのハンバーグ屋に行くこととなった。明らかにテンションのあがったおじさんであったが、僕の心の中では鬱々たる気持ちが育まれていた。

ハンバーグ。それはエンターテインメント。ハレの日の食べ物だ。僕も好物である。未来永劫ハンバーグを好きであり続ける自信がある。しかし昨日はお酒を飲んでしまった。先に述べたようにお酒を飲んだ次の日の食欲は絶望的だ。さっきご飯食べたばっか?というくらいには食べられない。今日のコンディションでのハンバーグは危険だ。でもおじさんの嬉しそうな表情を曇らせるわけにはいかない。ここはひとつ、腹を括って胃腸に悲鳴をあげてもらおう。

覚悟を決めてお昼ご飯の時間を待ったが、だいぶ落ち着いている気温が落ち着いているを通り越し崩れ始めた。ハンバーグ屋は歩いて多少距離がある。雨の中向かうには完全にむいていない。危ぶまれるハンバーグ。でもひっそりホッとしている僕。

結局、お昼の時間にちょうど雨がちらついてきたのでハンバーグは次回に持ち越しとなった。よかった。おじさんの大好物のハンバーグをお残ししないですんだ。

ハンバーグを諦めどうしたかというと、会社から最も近いというだけが取り柄の中華屋に行くこととなった。食べたら嬉しいということもなければくさすほどにダメな部分もないという真顔中華である。その真顔ぶりを象徴するようなメニューがこれだ。

真顔ラーメン

本当に普通。普通という以外に表現のしようがない醤油ラーメンだ。たぶんここまで普通としか言えない醤油ラーメンは今の世の中なかなか食べられない。かつてあった高速道路のサービスエリアのラーメンとか、チェーン店が立ち並ぶ前のショッピングモールのフードコートのラーメンなどがこれに近いように思う。しかし今日のお腹には実にちょうどよくおさまった。おじさんも五目焼きそばを食べてご満悦だったようなので結果オーライということで。

それにしてもお酒を飲むとご飯食べられない仕様の身体、なんとかならないものだろうか。若い頃はめちゃくちゃ二日酔いのときでも1食を挟めば復活したのだけどな。というか自分で言っていて気づいてしまったけどこれが老いということか。そりゃ四十路も過ぎればそうなのかもしれないが現実をなかなか受け止められない。いっそのこと1週間くらいお酒を抜いたら一度リセットされたりしないだろうか。

ひとまず今はお酒を抜くことで食欲増進の効果を得られるという"飲まない楽しみ"というものを素直に楽しんでいこうと思いやっす。

 

500年生きて無為な時を過ごしたい

あー、500年くらい生きてえ。そんで無為な時間を過ごしまくりたい。

スマホにメモがあった。最近深酒すると記憶が曖昧になるので酔ったときの思いをメモしている。冒頭の一文はそれということだ。残してどうしようかと思ったのかは謎だが、そう思ったのは覚えている。こういう時に限って覚えているんだよな。そもそもメモをとろうと動ける範囲のうちはわりと大丈夫なのかもしれない。

それはさておき500年生きたい問題である。人間、寿命が短すぎるとは思いませんか。よく生きたなというところで80年。短い。

短い人生だからこそ頑張るんだ、頑張る必要があるんだというのもごもっともだが、そういった高邁な精神をもっていれば冒頭の思いは生まれてこない。僕は気がすむまで存分にだらだらしたいのだ。短い人生と理解しているからこそ、そうそうはだらだらしていられない。ではどうすればよいのか。そう、寿命が伸びればいいじゃないかという発想である。

500年もあればだらだらしながらも時代の変化を見届けることができるだろう。そうなればそこにいるだけで生き字引きだ。ひとまず生計はそれでたてる。地球のコンサルとかなんとかいってあとは口八丁でどうにかする。

でも真面目な話、長生きして時代の変化を見届けるというのはできることなら本当に体験してみたい。例えば今から500年前なら1522年。日本でいうと元号は大永2年、室町時代、戦国時代だそうだ。戦国時代ったらそこら中で抜刀されていたような時代だ。そんな時代から板っきれ(スマホ)ひとつで家にご飯が届く時代である。間に色々なことありすぎて想像するのも疲れてしまいそうだが、それを全て見届けているとなれば時代の生き証人だ。ただ、見ているだけで本人の知能が高いわけではないので回答内容は本人のスペックに準拠するけど。「織田信長って結局どうなったの?」に対して「死んだ」くらいしか答えられないかもしれない。そのひとからは2度と話しかけられないだろうな。

本当に戦国時代あたりから今まで生きていたらスマホであれこれとか微塵も想像できなかっただろうな。戦国時代に生きていて、自分の前にタイムトラベラーが現れてスマホのことを話し始めたら即座に嘘だと思うだろうし、それどころか、嘘つくにしてもこいつセンスねえなくらい思うかもしれない。スマホのある時代に生きていてよかった。

現代から500年生きたらスマホのように過去では考えの種すら存在しないような物が開発され、生活に根付いていたりするのかもしれない。なんなら人類が進化なり退化なりする可能性だってある。それは現代の価値観や想像できる範囲を超えてくるものになるのだろうな。

かなり前に"たけしの万物創世記"というテレビ番組でどこやらの惑星には人間とは全く生態の異なる生命体が存在している可能性があると言っていてガス生命体なるものを紹介していたけど、それだって突飛ではありつつも人間の考えたものだ。進化するならもっと今の概念にない進化をする可能性大だ。

そんな時代の移り変わりを見れちゃう500年ライフ。いかがですか。

でもさすがに進化とかってなると500年程度では無理か。国の勃興、世界の国々の栄枯盛衰を観察できるくらいがいいところか。それも十分に面白いけれども。ちなみに世界でどんなことがあっても自分だけは平和で健康に生きることができるということが大前提となっております。普通に考えたら解剖とかされかねないわけですけれども。

ポイントとしてお伝えしておきたいのが、不老不死でありたいということではないということだ。老化がゆるやかではあってほしいけど。秦の始皇帝のように水銀を飲んだりはしない。水銀って前情報なしで初見だったら何か奇跡起こしそうな見た目はしていると思う。

話が逸れまくってしまったけど、500年生きて無為な時間を過ごしたいとか言ってみたものの、時間に余裕があるだけに逆に色々手をつけたりするものなのかもしれないなと思ったのでした。

こういうとこでただただぼーっとしてても罪悪感感じたくない

 

半生を共にしたボウルとお別れ

物を捨てるのがとにかく下手だ。明確に捨てる理由が見当たらないとなかなか思い切って捨てることができない。片付けができないタイプの人間であるというのは自覚している。そんな自分の中で山が動いた。

おボウル

見ての通り、ボウルである。しかしただのボウルではない。上京してきた直後に買ったボウルなのだ。しかも100均で。すなわち20数年生活を共にしてきたボウルということになる。それを捨てた。これは僕の中で大きな出来事だ。特に問題なく使えていたので前述の通り捨てる理由もなかったが、この度妻の指令でボウル入れ替えの儀を執り行ったためご勇退となった。

無意識で使い続けていたが、モノってそんなに保つものなのだなと驚きだ。100円のプラ製品だというのに。上京して24年くらいになるのだけど、日割りで言ったら1日0.01円くらいで使っていたことになる。この計算になんの意味があるかと言われれば全く意味がないことは承知しているけれど、こういうのって計算してしまうじゃないですか。ビルゲイツの時給とか計算しませんでしたか。勝手に計算して勝手にけしからん!ってなりませんでしたか。ならないですか。そうですか。

それにしても24年共に過ごしてきたというのはなかなかのものだ。生涯で最も共に過ごしてきた時間が長かったのは親でも妻でもなくボウル氏だったのだ。半生を共にしたボウルだ。ちょっと絵本のタイトルっぽさがある。今回は都合によりご勇退となったが頑張れば付喪神くらい宿ったかもしれない。というかもしかしたらもう宿っていたかもしれない。捨てちゃったけど。

最近は至極真っ当な使われ方をしていたボウル氏だが、購入したての頃はトリッキーに使役されていた。つっても使ってるの僕なんですが。若さと面倒臭がりが絶妙に混ざり合ってこのボウルでインスタントラーメン食べたりしていたものな。汁が飲みにくくて仕方ねえ。そういう使い方するものじゃないので当たり前なのだけども。その当時100均にどんぶりが売ってなかったんでしょうね。

ちなみにボウル入れ替えの儀によって召喚されたのはこちらのボウル。

ガラスのボウルとステンレス製のザルがセットになったものだ。非常に衛生的な雰囲気があって気分が良い。耐熱ガラスなのでオーブン調理OKなのだとか。先代は熱湯すら危うそうだったものな。ラーメン食べちゃってたけど。そしておしゃれっぽさもある。これを使って料理をすると海外の料理番組のようなビジュアルになるのだ。それおしゃれか?と言われると押し黙るしかない。

長年使い続けていたものを手放すということでもう少しセンチメンタルな気持ちになるのかなと思ったけれど、思ったよりこなかった。そりゃまあボウルだしなと言われればその通りである。本当に理由がなかったから捨てなかっただけだったということか。

捨てる理由がないからと古いものをなかなか捨てられないときはその理由を作ってしまえばよいのだなと今回のボウル入れ替えの儀で思ったのだった。みなさまにおかれましてもよきボウル入れ替えライフをお過ごしくださいな🥣