普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

お酒を飲まない楽しみというものを見出しはじめた

ただのルーチンのように飲酒をしているが、それなりに日々の晩酌は楽しんでいる。しかし飲まない楽しみを見つけてしまった。

お酒を飲まなかった次の日、おそろしく食事がはかどるのだ。

て、あれ?そのお顔はいまさら何言ってんの的なお顔ですか。お酒を飲まないと食欲がもりもりわいてくるというのは世間の常識でしたか。

何はともあれ食欲があるというのは嬉しい。というよりも、食欲がわかないというのは生き物としての危機を感じる。そういうこともありどうにか通常の量を食べることができないものかと手をこまねいていたところに先日の健康診断。検査のためにお酒を抜いたことが功を奏し爆速で通常の量の食事をたいらげるという近年稀に見るエレガントな食事となったのだ。

ひとりの家ご飯のときなら食事の途中で思ってたよりも早く限界に達してしまっても「ちょっと多かったな…あとで食べよう」と、とっておいて次回の食事のときに食べてしまえばよいのだけど、他のひとご飯を食べに行ったときなどはお残しをしなければいけない。作ってもらった食事を残すということにものすごく抵抗を感じるし、一緒に食事をしているひとから見てもあまり印象の良いものではないだろう。そういうこともあり、通常の一人前を問題なくたいらげることは必須ということである。

そのような小賢しい処世に関する思いを胸に会社に行ったときは定年派遣おじさん等とお昼ご飯を一緒に食べる。昨日も出社をしていたのでおじさんとお昼ご飯の相談をしていた。僕が会社に行く理由はお昼ご飯を食べることだと主張して憚らないように、おじさんも出社時のハイライトはお昼ご飯だと声高に語る。

昨日はだいぶ気温も落ち着いており、多少距離のあるお店にいくこともできるだろうという判断でおじさんお気に入りのハンバーグ屋に行くこととなった。明らかにテンションのあがったおじさんであったが、僕の心の中では鬱々たる気持ちが育まれていた。

ハンバーグ。それはエンターテインメント。ハレの日の食べ物だ。僕も好物である。未来永劫ハンバーグを好きであり続ける自信がある。しかし昨日はお酒を飲んでしまった。先に述べたようにお酒を飲んだ次の日の食欲は絶望的だ。さっきご飯食べたばっか?というくらいには食べられない。今日のコンディションでのハンバーグは危険だ。でもおじさんの嬉しそうな表情を曇らせるわけにはいかない。ここはひとつ、腹を括って胃腸に悲鳴をあげてもらおう。

覚悟を決めてお昼ご飯の時間を待ったが、だいぶ落ち着いている気温が落ち着いているを通り越し崩れ始めた。ハンバーグ屋は歩いて多少距離がある。雨の中向かうには完全にむいていない。危ぶまれるハンバーグ。でもひっそりホッとしている僕。

結局、お昼の時間にちょうど雨がちらついてきたのでハンバーグは次回に持ち越しとなった。よかった。おじさんの大好物のハンバーグをお残ししないですんだ。

ハンバーグを諦めどうしたかというと、会社から最も近いというだけが取り柄の中華屋に行くこととなった。食べたら嬉しいということもなければくさすほどにダメな部分もないという真顔中華である。その真顔ぶりを象徴するようなメニューがこれだ。

真顔ラーメン

本当に普通。普通という以外に表現のしようがない醤油ラーメンだ。たぶんここまで普通としか言えない醤油ラーメンは今の世の中なかなか食べられない。かつてあった高速道路のサービスエリアのラーメンとか、チェーン店が立ち並ぶ前のショッピングモールのフードコートのラーメンなどがこれに近いように思う。しかし今日のお腹には実にちょうどよくおさまった。おじさんも五目焼きそばを食べてご満悦だったようなので結果オーライということで。

それにしてもお酒を飲むとご飯食べられない仕様の身体、なんとかならないものだろうか。若い頃はめちゃくちゃ二日酔いのときでも1食を挟めば復活したのだけどな。というか自分で言っていて気づいてしまったけどこれが老いということか。そりゃ四十路も過ぎればそうなのかもしれないが現実をなかなか受け止められない。いっそのこと1週間くらいお酒を抜いたら一度リセットされたりしないだろうか。

ひとまず今はお酒を抜くことで食欲増進の効果を得られるという"飲まない楽しみ"というものを素直に楽しんでいこうと思いやっす。

 

500年生きて無為な時を過ごしたい

あー、500年くらい生きてえ。そんで無為な時間を過ごしまくりたい。

スマホにメモがあった。最近深酒すると記憶が曖昧になるので酔ったときの思いをメモしている。冒頭の一文はそれということだ。残してどうしようかと思ったのかは謎だが、そう思ったのは覚えている。こういう時に限って覚えているんだよな。そもそもメモをとろうと動ける範囲のうちはわりと大丈夫なのかもしれない。

それはさておき500年生きたい問題である。人間、寿命が短すぎるとは思いませんか。よく生きたなというところで80年。短い。

短い人生だからこそ頑張るんだ、頑張る必要があるんだというのもごもっともだが、そういった高邁な精神をもっていれば冒頭の思いは生まれてこない。僕は気がすむまで存分にだらだらしたいのだ。短い人生と理解しているからこそ、そうそうはだらだらしていられない。ではどうすればよいのか。そう、寿命が伸びればいいじゃないかという発想である。

500年もあればだらだらしながらも時代の変化を見届けることができるだろう。そうなればそこにいるだけで生き字引きだ。ひとまず生計はそれでたてる。地球のコンサルとかなんとかいってあとは口八丁でどうにかする。

でも真面目な話、長生きして時代の変化を見届けるというのはできることなら本当に体験してみたい。例えば今から500年前なら1522年。日本でいうと元号は大永2年、室町時代、戦国時代だそうだ。戦国時代ったらそこら中で抜刀されていたような時代だ。そんな時代から板っきれ(スマホ)ひとつで家にご飯が届く時代である。間に色々なことありすぎて想像するのも疲れてしまいそうだが、それを全て見届けているとなれば時代の生き証人だ。ただ、見ているだけで本人の知能が高いわけではないので回答内容は本人のスペックに準拠するけど。「織田信長って結局どうなったの?」に対して「死んだ」くらいしか答えられないかもしれない。そのひとからは2度と話しかけられないだろうな。

本当に戦国時代あたりから今まで生きていたらスマホであれこれとか微塵も想像できなかっただろうな。戦国時代に生きていて、自分の前にタイムトラベラーが現れてスマホのことを話し始めたら即座に嘘だと思うだろうし、それどころか、嘘つくにしてもこいつセンスねえなくらい思うかもしれない。スマホのある時代に生きていてよかった。

現代から500年生きたらスマホのように過去では考えの種すら存在しないような物が開発され、生活に根付いていたりするのかもしれない。なんなら人類が進化なり退化なりする可能性だってある。それは現代の価値観や想像できる範囲を超えてくるものになるのだろうな。

かなり前に"たけしの万物創世記"というテレビ番組でどこやらの惑星には人間とは全く生態の異なる生命体が存在している可能性があると言っていてガス生命体なるものを紹介していたけど、それだって突飛ではありつつも人間の考えたものだ。進化するならもっと今の概念にない進化をする可能性大だ。

そんな時代の移り変わりを見れちゃう500年ライフ。いかがですか。

でもさすがに進化とかってなると500年程度では無理か。国の勃興、世界の国々の栄枯盛衰を観察できるくらいがいいところか。それも十分に面白いけれども。ちなみに世界でどんなことがあっても自分だけは平和で健康に生きることができるということが大前提となっております。普通に考えたら解剖とかされかねないわけですけれども。

ポイントとしてお伝えしておきたいのが、不老不死でありたいということではないということだ。老化がゆるやかではあってほしいけど。秦の始皇帝のように水銀を飲んだりはしない。水銀って前情報なしで初見だったら何か奇跡起こしそうな見た目はしていると思う。

話が逸れまくってしまったけど、500年生きて無為な時間を過ごしたいとか言ってみたものの、時間に余裕があるだけに逆に色々手をつけたりするものなのかもしれないなと思ったのでした。

こういうとこでただただぼーっとしてても罪悪感感じたくない

 

半生を共にしたボウルとお別れ

物を捨てるのがとにかく下手だ。明確に捨てる理由が見当たらないとなかなか思い切って捨てることができない。片付けができないタイプの人間であるというのは自覚している。そんな自分の中で山が動いた。

おボウル

見ての通り、ボウルである。しかしただのボウルではない。上京してきた直後に買ったボウルなのだ。しかも100均で。すなわち20数年生活を共にしてきたボウルということになる。それを捨てた。これは僕の中で大きな出来事だ。特に問題なく使えていたので前述の通り捨てる理由もなかったが、この度妻の指令でボウル入れ替えの儀を執り行ったためご勇退となった。

無意識で使い続けていたが、モノってそんなに保つものなのだなと驚きだ。100円のプラ製品だというのに。上京して24年くらいになるのだけど、日割りで言ったら1日0.01円くらいで使っていたことになる。この計算になんの意味があるかと言われれば全く意味がないことは承知しているけれど、こういうのって計算してしまうじゃないですか。ビルゲイツの時給とか計算しませんでしたか。勝手に計算して勝手にけしからん!ってなりませんでしたか。ならないですか。そうですか。

それにしても24年共に過ごしてきたというのはなかなかのものだ。生涯で最も共に過ごしてきた時間が長かったのは親でも妻でもなくボウル氏だったのだ。半生を共にしたボウルだ。ちょっと絵本のタイトルっぽさがある。今回は都合によりご勇退となったが頑張れば付喪神くらい宿ったかもしれない。というかもしかしたらもう宿っていたかもしれない。捨てちゃったけど。

最近は至極真っ当な使われ方をしていたボウル氏だが、購入したての頃はトリッキーに使役されていた。つっても使ってるの僕なんですが。若さと面倒臭がりが絶妙に混ざり合ってこのボウルでインスタントラーメン食べたりしていたものな。汁が飲みにくくて仕方ねえ。そういう使い方するものじゃないので当たり前なのだけども。その当時100均にどんぶりが売ってなかったんでしょうね。

ちなみにボウル入れ替えの儀によって召喚されたのはこちらのボウル。

ガラスのボウルとステンレス製のザルがセットになったものだ。非常に衛生的な雰囲気があって気分が良い。耐熱ガラスなのでオーブン調理OKなのだとか。先代は熱湯すら危うそうだったものな。ラーメン食べちゃってたけど。そしておしゃれっぽさもある。これを使って料理をすると海外の料理番組のようなビジュアルになるのだ。それおしゃれか?と言われると押し黙るしかない。

長年使い続けていたものを手放すということでもう少しセンチメンタルな気持ちになるのかなと思ったけれど、思ったよりこなかった。そりゃまあボウルだしなと言われればその通りである。本当に理由がなかったから捨てなかっただけだったということか。

捨てる理由がないからと古いものをなかなか捨てられないときはその理由を作ってしまえばよいのだなと今回のボウル入れ替えの儀で思ったのだった。みなさまにおかれましてもよきボウル入れ替えライフをお過ごしくださいな🥣

 

2代目寅さん討論会

男はつらいよシリーズといえば言わずと知れた国民的映画である。渥美清演じる寅さんが様々な人物と触れ合い、その人間模様に泣いたり笑ったりする物語である。作品数も相当なもので正確には知らないけれど、50作品くらいあるようだ。

ドラマの話数だとしても相当に多い。1クール10話くらいなので5クール。1年以上続けないとこの数字に満たない。それを映画でやっているのだから単純にすごい。色々な意味で今の時代では考えられない。

主人公である寅さんこと渥美清が亡くなったのは1996年。今から30年近く前だ。寅さんといえば渥美清であり、なんなら役を演じていないときであっても渥美清は寅さんであらねばならないこともあっただろうと思う。そのくらいに渥美清と寅さんは渾然一体であった。

その渥美清が亡くなった今、男はつらいよシリーズの続編は作られることはない。渥美清以外の寅さんというのは考えられないのだ。

だけども。だけれどもですよ。仮に、仮にね、今の時代に男はつらいよシリーズが制作されることとなったときに、寅さん役って誰が演じるんだろう。そんなことを昨日定年派遣おじさん、飲んだくれ姐さんと討論した。

寅さんってそもそもイケメン枠ではない。それを考えると今の時代の俳優はイケメン揃いすぎるのでなかなか寅さんを演じることを想像できない。顔が整いすぎている寅さんでは話が入ってこなそうだ。カッコ悪い姿を演じていても「あー、はいはい、イケメンのこんな一面見せちゃいます的なやつね」と、そねみ人間となり爪を噛むことになる。おじさんと姐さんとの話でもその部分は概ね一致している見解であった。

誰だろうなあとうんうんうなっているうちに姐さんがぽつり

「ムロだ」

おお、ムロか!ムロかもしれない。整いすぎていない顔、カッコ悪さの似合うキャラ。確かにムロツヨシはいい線いっているような気がする。誰が演じても絶対に全員が満足することはないのだろうけど、ムロツヨシであればある程度の人数納得しそうだ。

あー、いいですねえと結論はムロと話を締めようとしたところ、おじさんからも提案があった

濱田岳では?」

なるほど。その線があるか。ムロに比べると少し顔面力があがってしまうのでその点においては微妙かもしれないなと思ったが、彼には釣りバカ日誌のハマちゃんを演じたという実績がある。しかも好評価だ。まず演技が上手。これこれでありかもしれない。

2代目寅さんはムロツヨシ濱田岳。最終的に候補はこの2人となりこの議論は幕を閉じた。途中、大泉洋の名前も出たが、コメディのイメージはあるものの、そもそもカッコ良すぎるし、カッコ良い上でのコメディ要素なのでその点はいただけないよねと却下となった。大泉洋も抜群にイケメンってことはないのだけど、寅さんとなるとなんか違うんだよな。

こういうもしもの話って無責任に勝手に話ができるので楽しい。特に飲んでいるときのこの手の話は酒の肴として最高だ。男はつらいよの新作が撮られることも、ましてや渥美清以外が寅さんを演じるなどということもないだろうけど、ひとそれぞれの2代目寅さんがいていいだろう。

みなさんの想像する2代目寅さんはいるだろうか。と、若干のいかがでしたかブログ的な締めで本日はここらでおいとましやす。

 

音楽の好みが変わらないのじゃなく、好きだった音楽がたまたま流行った時代があっただけともとれる

音楽の好みがアップデートできていないのだと思う。とは言ってもずっと同じ音楽を聴き続けているというわけではなく、新規の音源なども聴くには聴く。どういうことかといえば、同じ傾向のものを好んで聴くということだ。好んで、というよりもそれを探しだして選んでいるといえるかもしれない。

もう少し具体的に言うと、コードで言うところの9thが好きすぎてadd9thなどかまされたらまず無視できない。顔がいいだけで異性になびくひとがいるように、9thが使われているだけで僕にとってその楽曲の評価はうなぎのぼりなのだ。そしてこれはジャンルということではなく、すべての音楽に当てはまる。めちゃくちゃ狭い範囲なのだけど、ある意味での懐の深さはあると言えるのでは。

とはいえ、やはり主戦場はエクストリームな音楽となるため、新たなバンドを探す際もその比重は自ずと大きくなる。昨日もSpotifyで叙情系のハードコアのプレイリストを聞いていたらもろに好みのバンドに出会えた。

CONVEREというバンドのshiningという曲で、曲が始まった瞬間にド9th、それに加えて疾走感も抜群だ。有り体に言うとビートが早い。賢さ低いというくらいに早い。でもそういうのもまた好みなのだ。好みの2大巨頭に出くわしたということになる。めちゃくちゃテンションがあがった。そうだ、速い音楽も好きなのだよな。あったまわる!ってくらいの速いやつ。

聞けるひとはきいてみていただきたい。加えて、アルバムまで聞けるひとはそちらも是非聞いてみてほしい。なんと、アルバム全部同じだ。同じようなコード感とテンポ、ビートで押し通している。それだけでは飽き足らず、他のアルバムを聞いてみたらそちらまで同じだった。すげえ。すげえぞ、これは。ここまでやってのけられると尊敬するしかない。インペリテリのSCREAMING SYMPHONY以来の金太郎飴ぶりだ。

僕もかつてバンドをやっていたが、なんだかんだと曲の方向性ってブレていってしまっていたのだと思わされる。貫徹とはこのことを言うのだろう。一生こうでいてほしい。そして僕もこうでありたかったとバンドから離れて初めて悔恨の念にかられた。僕のやっていたバンドの方向性はいわゆる00年代のエモと言われるものだったと思うのだけど、このバンドの音楽性に近い。このアルバムのリリース2015年だけど。2015年にこれをリリースしているのもまた素晴らしい。この手のものって僕みたいな者も含めてある一定のニーズがあるものなのかもしれないな。その波に乗りたかった。

まあ、終わったことをいつまでも言っていても仕方ないのでその気になったときにこの手の曲をまた自分で作り出せたらいいなと思う。

そもそもなぜここまで9th好きになったのかと思い返してみたらルーツはLUNA SEAにあると思う。LUNA SEAの初期は9thのみならずテンションコードの頻出していたし、メンバー本人もついついテンションコード使ってしまうと言っていた。そのLUNA SEAを神と崇めている僕だ、9thを素通りできるはずもない。9thは僕にとってのお題目といえるだろう。9thを聴き、弾くたびに解脱に近づく。前世は9thだ。そして来世も9th。9thの輪廻を生きているのだ。知らんけど。

ちなみに日本の有名なアーティストで言うと小田和正などはわりと9th感のある楽曲が多いような気がする。浮遊感と透明感のある雰囲気とでも言えばわかりやすいか。

9th、速さに加えて効果的にギターのクリーンサウンドを使いこなしているというのも楽曲の評価を大きく底上げする要素のひとつだ。エクストリームサウンドといえばごりごりに歪んだギターサウンドが真髄ではあるが、その中にあるクリーンサウンドを美しく際立たせることができるのは超能力を使いこなすに等しい才能だ。

その素晴らしさを抜群に発揮しているのがHapesfallである。速さはないけどコードとクリーンは他の追随を許さない。こともないけど神だ。ここは日本ですからな、八百万の神様がいらっしゃる。本国(アメリカ)でどうなのか知らないけれども。

冒頭で述べたように結局00年代のバンド音楽が好きというところから抜け出せてないといえばそこまでなのだけど、逆に言えば00年代が僕の好みにど直球な音楽性が流行っていたともとれるわけである。僕は90年代から浮遊感のある9th、馬鹿みたいに速い曲、絶妙なクリーントーンが好きだったなか、00年代のそのあたりのブームを経て現在に至ったと。物事、ポジティブシンキングで機嫌よく行きやしょう。

こうして今日の機嫌のよさは担保されたということである。そのうえお昼ご飯にチキン南蛮を食べたらおいしくてなおさら機嫌がよくなったし、仕事も真面目にした。唐突な上に雑な締めですがみなさんも好きなもので機嫌よく過ごしましょう。さいならー。

たくあんタルタルがよかった

 

ゾンビの眉間に釘を打ち込む工具

工具のインパクトをご存知だろうか。電動で釘打ちができるアレである。

住宅街を歩いていると家を建てている途中の現場から"パシュッ"と聞こえてくる。その音の出どころがこのインパクトなわけである。

めちゃくちゃ便利なのだろうなとは思う。そこは理解できる。しかし僕はこの道具が怖くて仕方ないのだ。だって、仕組みが武器じゃないですか。電動で釘を打ち出して木材にヒットさせて刺さるわけなので相当な勢いで打ち出していることになる。どう考えても武器だ。しかもゾンビ退治の武器っぽさがある。ゾンビの眉間にパシュっと銀の釘を打ち込んで無力化するための道具に思えてこないだろうか。あぶねえっすよ、これ。

街中でこの音が聞こえてくるたびに心の中で「ひー!退治しないで!」と思っている。それくらいにこの道具が苦手なのである。もしかして本当に最初の発想は武器の仕組みを転用していたりするのかもしれない。戦争は技術レベルを向上させるとも言うし。

ただでさえ危ないし怖いなと思っていたのだけど、こんなものまであるようだ。

いよいよ見た目まで武器に寄っている。まじもんの武器の様相だ。弾倉ついちゃってるし。これはたぶん龍が如くに武器として登場しているぞ。これだけもってカチコミとか全然いけちゃうのでは。これが合法でジョイフル本田とかできちんと売られているのだから日本は平和だ。

こういうことを言い始めると世の中危険な道具でいっぱいということになってしまう。要は使い方の問題であって、それさえきちんとしていれば良いという話なのだけど、この工具に関してはついつい想像しなくてもよい用途を想像してしまう。

他にも苦手なものとして、草刈機もかなり苦手だ。散歩中に近くで草刈機によって草刈りをしているとめちゃめちゃ緊張する。なぜかといえば、草刈りしている最中にあの丸い刃がはずれて飛んできてしまうのではないかと妄想してしまうのだ。ちょっとした病気っぽさのある発想だが、怖いものは怖い。たまに小石などにあたって明らかに硬いものに刃を当てている音がするけど、あの瞬間は警戒度マックスだ。小石のせいで刃が外れるかもしれない。そんなことになったためしはないのだろうけれども。

草刈機に関してはあまり武器っぽさは感じたことはないのだけど、もし武器として見るのであれば北斗の拳のモヒカンキャラが持ってそうだなと思う。ヒャッハーっつってな。

建築関係や園芸関係の方からしてみたら片腹痛さしかない話ではあるのだけど、世の中そういうひともいるよね、くらいの感じで受け止めてもらえれば幸いでございます。集合体恐怖症なんてひともいるわけで、くくりとしてはそのあたりと同じだと思う。いずれにせよ勝手に想像力たくましく被害妄想にふけってしまっているということなのだろうからもっと感度を落としていこうかと思います。

やっぱりこわい



今年一番の苦悶と恥辱を味わってきました

ついにこの日がやってきた。健康診断、その日である。

会社から年1度求められる健康診断で、今まではなんだかんだと会社で用意された健診を受けず、個人で手続きしてその結果を提出していたが、今回は年齢などの観点から胃カメラを含む健診を受けなければいけないということで渋々会社のものを受けることとしたのだ。

色々不安でいっぱいだったのだけど、まず予約の入れ方がなってなかった。こういったものは午前に予約を入れてサクっと終わらせてお昼ご飯を食べながらガハハがオーソドックスなやり方なのだろうけど、よく考えもせずに午後の予約を入れてしまったのだ。

どういうことかと言えば健診が終わるまでご飯が食べられないということである。14時くらいから予約をいれたので、健診が終わるまでとなるともう夕方だ。1日中食事抜き。とんだセルフ折檻である。ただ、食べないと言うことに関しては意外に大丈夫だったりしたのだけど。やはり筋肉がない分燃やすエネルギーが少ないのだろうか。高燃費おじさんここに現る。

午後から健診ということなので、午前中は仕事をする。健康診断で仕事を抜けることは事前に同じ島の方々には伝えてあって、胃カメラが本当に憂鬱で仕方ないということも伝えていたのだけど、ここにきてめちゃくちゃに不安を煽られた。「ほんっとうに辛いから頑張ってね」「次に元気な君を見るのはしばらく先か…」などと。ただでさえ不安なところにまっくろくろのネガティブ情報を植え付けられたため「腹を切るつもりで挑みます…」と力無く返すこととしかできなかった。

こうして職場の面々に激励の言葉とともに見送られて健診会場へ舞い降りた。最初の主旨説明みたいなもので今日は胃カメラがあること、胃カメラは多少辛さはあるものの、力を抜けば案外すんなり終わることなどを説明される。「それなりの覚悟ではきていますので…」と今にも腹を切らんばかりの決意の眼で説明を聞き、健診の火蓋は切って落とされた。

様々な検査を受けながら先ほどの説明を思い出す。「胃カメラのときに使う薬の影響で検査後1時間は飲食ができないので注意してくださいね」こう言っていた。ということは早めに胃カメラを済ませておけば健診すべてが終わる頃には食事ができるようになっているという寸法なのでは。そう思いながら検査をこなしていたが、一向に胃カメラに辿り着かない。

そうこうしているうちに「次の胃カメラで最後になりますので」と伝えられる。おいーー、ボスじゃねえか、大ボスじゃねえか。確かに今回の健診のメインではあったけど、どすんと良いポジションとってんじゃないよ。

しかしこうなったら覚悟を決めるしかない。事前準備としての喉の麻酔を口に含み、徐々に舌の感覚が麻痺してくるのを空を見つめながら待った。それにしても、この舌が麻痺してくる感覚って合っているのだろうか。喉の麻酔だっていっているのに、舌ばかりが麻痺するのだ。もしかしたら無意識のうちに舌のうえで転がしているだけで喉までいっていないのではないかと思ってしまう。それくらいに喉のあたりは感覚が普通だ。

やる気とか関係なくあとは検査をしてもらうしかないのでベッドに横たわり医師がスコープをぶち込むのを待つしかない。ちなみにこのとき口には猿ぐつわのようなものをはめられ、よだれを受けるトレーみたいなものを敷かれているというその筋のご褒美スタイルで待ち構えている状態だ。

医師がやってきて、「前、潰瘍見つかったんだって?」と質問をしてきた。前述の通りご褒美スタイルの僕は答える術を持たない。すると医師がなんで答えないの、このひとみたいな顔をしたので手で「少しね」とサインを作って返した。あれ絶対わざと聞いてるだろ。「ふほひはへへす(少しだけです)」とか言わせたくて。

そんなオープニングアクトを経てメインステージ開始。知ってはいたがめちゃくちゃつらい。スコープが喉を通った瞬間にゴアグラインドもびっくりの超絶下水道ボイスが繰り出された。死因胃カメラになるかと思ったわ。ぐいぐいと挿入される胃カメラとなんだかもうよくわからない液がとめどなく口から溢れる僕。立派な医療行為であるのにこんなに混沌とした空間なかなかないんじゃないかと思う。

永遠にも感じたスコープによる責め苦も終わりが訪れた。終わった直後、少し放心してしまった。目から涙をぼろぼろと流しながら。明らかに何かあったひとである。まあ一戦交えたのには違いないんですが。

その後胃カメラを受けたベッドの端にちょこんと座らされ、スコープで撮影した写真を医師と一緒に確認をした。なんだかこのシチュエーション、ちょっとAVの撮影後のインタビューみたいだなと思った。いや、そんなことはよい。肝心の所見であるが、十二指腸に結構な炎症が確認できた。十二指腸炎らしい。まあ心当たりがあるといえばあるので妥当かなとは思えた。念の為「これは十二指腸炎確定ですか?」と聞いたら「ええ、確定です」と回答があったので十二指腸炎を患うものとして生きていこうと思う。

こうして胃カメラというラスボスも乗り越え、健康診断2022の幕は閉じたのであった。

今日は透析の日だったので健診のあとはすぐ向かわなければならない。病院につぐ病院というのも僕らしくてまたよかろう。しかし、本当に何も食べてないのでそれだけはどうにかしたいと透析クリニック近くのラーメン屋に駆け込んだ。

普段であればすぐおなかが一杯になってお残ししないことに必死になるのに、今日に関しては爆速で完食し、なんなら少し足りないくらいであった。食べないでも平気だななどと思っていたけどしっかりおなかが減っていたということなのだろうな。というのが自分でわかっていないのもちょっと不安だけど。なに、これも十二指腸のなんかなんですかね。ちなみに昨日お酒を抜いていたのでその影響もあるかもしれない。

恥辱のご褒美ラーメン



ちなみに、健診の最後でお医者さんの診察みたいなものがあったのだけど、「腎臓が悪い以外は概ね良好」のお言葉をいただけた。健診結果が楽しみだ。